『審査総評』
  25年の節目となるJIA東海支部の設計競技は、「和の遺伝子を探る」のシリーズテーマで今年が5回目となる。1回目の「境界空間」から「身体」、「雨」、「にわ」へとつづき、今回の課題「奥」で完結する。「奥」は、1回目の課題選択の時から、浮かんでは消えた課題テーマであり、今年は他の和の遺伝子である「座する」「代謝」「象徴空間」などを押さえ最終的に選ばれた。
 「奥」には、東洋的な神秘性と秘められた空間性を持ち、東洋人や日本人には遺伝子として体に記憶されている。今回の「奥」は、この遺伝子を呼びさまし、建築へと転化し、個性を失った空間や場に固有の性格を与え、その階層性を復活させることで、豊かな住空間つくり出すことを問うている。
 提案の多くはつぎの3タイプに分類される。「奥」を直線的な細長い空間の最後に限定し固定化した案。ジグザグや巻き込む回転によって細長い空間に変化をつけて、「奥」の数を増やし、空間に強弱をつける案。リング状のエンドレス空間をつくり、形態をしぼり、拡げる操作により「奥」を発生させる案、などが見受けられた。また、少数派ではあるが、本のページをめくる様に時間軸と奥へと向かう行為を空間化した提案。レベル差による奥をつくることで家族のコミュニケーションを豊かにする提案。既設の集合住宅団地に奥の概念を取り込み、再構築してゆく案など、熱意と力量が読みとれる案も多く印象的であった。
 全体を振りかえると、テーマの難しさは審査員の提案に対する評価にも及ぶ。学生、一般を問わず、一次審査で3人以上の票を獲得した案は、数点であったにもかかわらず、その後の2次審査ではそれらが上位へと選出されることも少なく。また、1次審査で2人の票を獲得した案が最終では上位に選出される程の難しい審査会となった。そして、それほどに「奥」についての考えかたが多岐にわたり東洋人や日本人の心の奥に浸透しているかを体現できた審査会でもあった。
 グローバル化社会に明るい未来があると信じて走ってきた世界、そして日本は、今現在このグローバルという言葉に戸惑いを感じている。グローバル化はそれぞれの風土から生まれた習慣や、生活様式までも均一化し、そこで育まれた豊かな文化や人の感性までも、浸食していくように思われる。
JIA東海支部の設計競技は、これからも時代性を読み取り、真の日本における豊かな建築は何かを問うて行きたいと考えます。


審査委員長 竹山 明英



審査を終えて
  私はこのような設計競技の審査員を引き受けたことはほとんどなく、今回が初めての経験であった。初めての経験の者が審査するということはどういうことなのか、その意味を考えたとき、これはもう正直に、素直に思ったことを言うことしかない、そう思った。設計競技における常識やあるいは諦めは私には経験としてないわけで、それならより純粋な視点で作品を見ることができるのではないか、そこに自分が参加する意義を見出し引き受けたわけである。大学で設計の課題を出すときに、“こういうことをやってはいけない。”ということを最初に話をしてから出すようにしている。しかし今回は私が直接出題しなかったので応募者は私の“やってはいけない”ことを考慮に入れないまま表現してきていることになる。今の若い人たちがどう建築を捉え表現したいのかを、私の考え方のフィルターをほとんど通さず直接的に知ることができたわけである。それは私にとって新鮮で有意義なことだった。さて応募作品全体を通して見てみると、どの作品もそれなりに美しく体裁よく表現されており、視覚的に気持ちがよくわかりやすかった。これはとても大切なことだ。また適当なやっつけ仕事もほとんど見当たらなかった。また審査員の方の作品への批評の的確さ、それをサポートする方々の気持ちのよい働きも素晴らしかった。しかし応募者の作品の中で思考の深さと密度を感じる作品は少なく考え方は凡庸で、ほとんどの作品が数種のパターンの中に軽く分類されていってしまった。賞を獲得した作品はそれに当てはまらない自立した強い作品であったと思うが、一般部門では最後の決め手に欠けて金賞を選べなかったことが心残りである。それともう一つ、応募作品全体の中でメディア界における人気建築家の“ものまね”がこれほど多いとは思わなかった。もちろん世間を賑わしている建築家を真似る、見習うことは大事なことだと思うし、それが設計のスタートであってもなんら問題はない。しかしこの設計競技というステージにおいて話は別だ。真似るときにはもう少し自分の良心と身体感覚、そして恥じらいと悔しさと真摯に向き合ってからにしてほしい。このことはどんな時代でもいえることかもしれないが、しかしだからといって言わなくなるのはもっといけない。今回、審査員の新人として、その役割を担うことができたのだとしたら嬉しく思う。

ゲスト審査委員  堀部 安嗣