一般の部 銀賞

『one stroke』

 そもそも日本文化における自然観とは、内外部の境がない連続性というよりも、内外部の境界それ自体が存在せず、ものと自然とが併置され、序列のない一体感の中に現れ出てくるものといえる。
この案においては、一枚の曲げられたプレートによって内と外とを便宜的に区別しているが、いわゆる屋根と呼ばれるものを持たないため、縦方向にも横方向にも空間は繋がっており、その関係性は単なるリニアな連続性ではなく、三次元的で立体的な開放性を持っている。つまり、プレートによって作られた境界は、空間を分かつというよりもむしろ、序列のない内と外とを強調するためのしかけとなっている。
そら、ニワ、表、裏などが混在しながら、外と内とが嵌合し、視点が固定化されず、序列を消すための装置としてのこのプレートは、視点の移動によって関係性が変化する日本的なものを象徴している。
そんな意味においてこの案は、単純化されたニワの形によって和の遺伝子を現した、素直な案と言えると同時に、どこにでもある日本の庭の、実はダイアグラムとなっているところが、見ていておもしろく優れている点である。

鳥居 久保


『霧のニワ』

 現代、とりわけ都市部における住宅事情では、いわゆる庭はほとんど存在しない。存在できないとも云えるだろう。しかし、日本人の意識の中では、たとえ小さな空間であっても庭にしたくなってくる。ところが、作者はもはや敷地の中に庭を見いだそうとはしていないかのようだ。マチ全体が敷地とみなして、そこにドライミストの壁を発生させて空間を規定する。この「濡れない霧」は、ときに光を反射して白くその存在感を示し、ときにその存在感を薄れさせてしまうことも可能だ。形があるようで無いとも云える。マチの中のあちこちにこの柔らかいテリトリーを、いとも軽やかに創り出しているこの提案は、まるで、今おかれている住宅事情をあざ笑っているかのようだ。ここにニワがあるではないか!と。そこには、ドライミストの無い「なわばり」空間があり、その外側にはドライミストで満たされたニワがある。その人と人とのインターフェースとしての空間を満たす柔らかいドライミストのカタチは、伝統的な庭に植えられている樹木が反転したかのようにもみえる。やはり、作者の意識の中にも、木の植わった美しい庭が潜在的に存在しているように感じた。

斎藤 正吉