だれもが知ってる
建築史のはなし
<第5回>
謀る
溝口正人|名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授
  みぞぐち・まさと|1960年三重県生まれ。名古屋大学卒、同大学院修了。清水建設設計本部、名古屋大学助手を経て現職。専門は日本住宅史、漢族・少数民族住居誌。文科省文化財保護審議会第二専門調査会委員、愛知県文化財保護審議委員、重要伝統的建造物群保存地区保存審議委員(妻籠, 奈良井, 足助など)。町並調査(美濃, 醒井,犬山,足助, 有松, 揖斐川など)、近代化遺産調査(秋田, 鳥取, 愛知)、名古屋城本丸御殿・湖西市新居関の復元などに従事。写真はヤオ族の子どもとともに。
私のパソコンの漢字変換ソフトによれば、「謀る」とは、策略をめぐらす、(あれこれ工夫して)だます、方策を考える、工夫する、うまく対処する、とあります。今まで取り上げてきた「はかる」が行為そのものを示す言葉であるとしたら、「謀る」には、行為の背景に巡らせるべき「たくらみ」の存在が不可欠なようです。策略とは誤解を生みそうですが、知的な「たくらみ」と置き換えるならば、建築設計には、何らかのたくらみは不可欠ですから、謀ることは必須なのだとも言えるでしょう。実は学問的な真理を追究しているかにみえる建築史の分野でも謀ることは欠かせません。映画「だれも知らない建築のはなし」を受けた連載の最終回は、建築史での「謀る」ことの諸相がテーマです。
復元・復原という謀りごと
模型制作といった可視化は有効な手段です。「復元」とは現存しないある時期の建物の姿を推測すること、「復原」とはある時期を遡ってもとの状態へ戻すこと。いずれも過去に想いをめぐらしながら、科学的な手続き・証拠をもとに進められるべきものですが、必要なすべての情報が明らかになるわけではありません。タイムマシンで過去へと飛ぶことはできませんから、想像に依らざるを得ない部分があります。時には科学的、あるいは社会的な妥当性を越えて「かくあるべし」という建築観が入り込む余地があることも否定できません。実は、この建築観が厄介でもあります。
 平井聖博士は「復原という作業は、現存する遺構にかかわる場合も、全く失われてしまった建物を新たに建てる場合も、残されている史料に対する解釈、推測、そして現実との妥協の上に立った創作、と考えている。」(建築雑誌1994年1月号)と、復元・復原という謀りごとの本質を明快に論じています。どれほど声高に学術的妥当性を唱えても、現代的な技術と解釈に基づく創作であることからは逃れられないということなのでしょう。
 痕跡の詳細な分析による復原手法を確立した建築史学の泰斗、浅野清博士による法隆寺伝法堂の前身建物復原の過程は、結果の意外性もあって推理小説にも似た面白さがあります。ただしこの復原も、いくつかの想定のもとに成り立っています。1964年の第2回歴史記念建造物関係建築家技術者国際会議で採択された、文化財の保存修復に関するバイブルとも言えるヴェニス憲章は「推測による修復を行ってはならないこと」を記しますが、極論すれば、往時の姿に戻そうと思った瞬間、推測なしに復原は成立しません。そして復元・復原、いずれも3次元の現物に仕上げる設計行為ですから、不明として白抜きやモザイク掛けはできません。不明な部分に創作が加わることは不可避なのだと言えます。
 槇文彦氏設計の古代出雲歴史博物館には、壮大な社殿の一部が発掘で見つかった中世出雲大社本殿の5通りの復元案が模型で示されていますが、その振り幅に驚きます(図1)。しかし、もとより手掛かりの少ない復元ならば、設計者の建築観の数だけ復元案は存在する。復元が、科学ではなく設計行為であることを如実に示す事例とも言えます。
 
図1|中世の出雲大社本殿の復原5案の模型
謀りごとの功罪
 東海地区には、国宝に指定されている永保寺開山堂や観音堂をはじめとして国指定文化財となっている禅宗様の仏堂は多く、そのひとつである定光寺本堂(瀬戸市)は明応9(1500)年竣工で、典型的な二重の禅宗仏堂の事例です。しかし永正7(1510)年の地震で大破、破損が進んで失われていた上層は、昭和14(1939)年の修理工事で他例に倣って復元されたものです。修理報告書に掲載された修理前の写真(図2)をみると、前後の激変ぶりに驚かされます。室町前期の建物とされる天恩寺仏殿(岡崎市)も同様で、維持が困難として明治15(1882)年頃に屋根を撤去、仮屋根とされ、大正6(1917)年の修理で現状の屋根に復元されたものです。報告書に掲載される大正修理前の写真(図3)を見ると、とても現状は思い浮かびません。
 建物にせよ町並にせよ、価値が可視化され、共有されて初めて保存に結びつく。しかし可視化されて出現するモノとしての訴求力は大きなものと言えます。復元であれ復原であれ、建築学の設計教育を受けてきた人間ならば誰でも、現物化したい、設計したいという欲求が湧き上がりますが、イメージの固定を生む現物化の功罪については、常に意識しなければなりません。
 国宝犬山城は、樹種が多様でチョウナ仕上げである大屋根の1・2階部分と、望楼部分の成立年代が異なるものと指摘されてきましたが、昭和36(1961)年から実施された解体修理時によって新たな知見が得られています。現状では塗籠とする大屋根の軒廻りは、かつて垂木の顕わしであったこと、望楼は現状と異なる形状であった可能性があること、南北面の唐破風は望楼部分の建造から遅れて付加されたこと、以前は4階の廻縁が大屋根で南北に分断されていたことが明らかとなったのです。犬山城と松本城、現存最古の天守はどちらかをめぐっては、研究者で意見が分かれるところですが、上記の発見をもとに大胆に復原するならば、犬山城の印象は随分と古式なものとなるでしょう。しかし2階建ての大屋根の上に望楼をいただき、南に望む城下に華麗な唐破風を見せる現状に価値を置くならば、推測と創作の積み重ねとなりそうな復原は、謀るべき選択とはいえないでしょう。
 

図2|定光寺本堂(瀬戸市)修理前の外観
時代の謀りごとにどう臨むか
 2020年のオリンピックに向けて江戸城や名古屋城の天守再建が話題になっています。ただし全国で天守再建が進められるのは、今回に限ったことではありません。維持費が嵩む存在であった城郭の建物群は、実は天下泰平の時代になると厄介者。でも体面もあって壊せない。武士は食わねど、です。ですから明治になると取り壊しが進みます。一方で地域を可視化する存在として天守は再評価されることとなりました。かつての大坂繁栄のシンボルとして「大阪城天守閣」が建てられたのは昭和6(1931)年、近代復興天守の第1号は、徳川時代の石垣の上に豊臣時代の天守風に建てるというものでしたが、近代の時代性を示して国登録有形文化財となっています。戦後になると、多くの城郭で天守が再建されました。明治に取り壊されたもの、空襲で焼失したもの、史実には基づかないもの、対象はさまざまでしたが、地域のシンボルとして城と天守が再浮上し、空前の天守ブームになったのです。
 明暦3(1657)年正月18日の大火で焼失した江戸城の天守は、万治2(1659)年の幕閣の評定で再建中止が決定されます。幕閣に重きをなしていた保科正之が「天守は近代(織田信長以来)のもので、軍事というよりは「観望」を目的としたものであるから、再建に及ばない」(『千年の松』)として再建不要と断じたのでした。平和な時代の到来とともに存在意義を失った天守の再建が見送られ、350年後の現代に復元が検討される。実は文化財修理の観点からは、木材が高騰して予算を圧迫し、修理すべき文化財が朽ち果てる可能性がありますから賛成できる話ではありません。純粋に学問の産物と考えられがちな復元・復原が、実は時代を反映した謀りごとであることが痛感されます。そして学問としての建築史は、時代と寄り添うのか間を置くのか、選択を迫られている昨今です。 
図3|天恩寺仏殿(岡崎市)修理前の外観