保存情報 第175回
登録有形文化財 旧大倉別荘離れ+表門(現・大倉公園休憩棟+茅葺門)    三井富雄|
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離れ外観(昭和50年)瓦葺き 離れ外観(現在・休憩棟)鋼板葺き 黒漆喰表門 現在黒漆喰表門
■紹介者コメント
 大倉公園は、大正8(1919)年、日本陶器㈱(現・㈱ノリタケカンパニー)初代社長の大倉和親氏により建てられた「大倉別荘」を元とし、昭和20(1945)年から30年間、加治慶之助(㈱名機製作所)初代社長が住み継いだ。その後大府市が購入、福祉会館、歴史民俗資料館、旧図書館を持つ「大倉公園」として整備した。
 和親は東洋陶器、日本碍子(現・TOTO、日本ガイシ)、日本特殊陶業の他、父孫兵衛と共に夢の会社「大倉陶園」も設立し、日本窯業の父と呼ばれた。慶応出身で、米国滞在時、広い視野と見識を培ったと思われる。当初この広大な丘陵地を3万本の桃畑としたが、桃は連作出来ず、一部を昭和9(1934)年「大府桃山園芸住宅地」として道脇に桜を植え分譲、後々私の住む処となった。
 良い環境をつくり残して下さった大倉様、加治様には深く感謝している。
 大正11(1922)年頃、眺望の良い丘の上に客人をもてなす【離れ】が建てられた。大正期の名残を留め、近代の大府を物語る建物として評価を受けた。東南に広く開けた庭に向けて2室1組をL字形に配置し、交点奥に配膳室を置く。配膳室からの廊下を裏のサービス動線、庭に面する内縁を表の客動線としている。手前2室は掃出し窓、本長押の「真の間」、奥2室は腰窓、磨丸太長押の「行の間」とし数寄屋風意匠としている。洋間地下には防空壕がある。
 「表門」は元々両脇に袖部屋を持つ茅葺長屋門で、外壁は上部が黒漆喰塗、下部はモルタル塗および杉板貼りだったが、昭和54(1979)年現在地に移築された際、袖部屋が撤去され、茅葺門となった。しかしこれらの建物も庭も後にかなり残念な改変・改修がなされている。
 『一度いりゃあせ/ 尾張の大府/ 春の桃山/桜山』(大府ばやし)
 
名 称:旧大倉和親別荘離れ・表門
所在地:大府市桃山町5-77・74
アクセス:JR 大府駅より徒歩9分
建築年:大正11(1922)年頃
登録番号:第23-0426・0427号
構造規模:木造平屋建・入母屋、
     当初瓦葺き、現在鋼板葺き
敷地面積:約17,000m²(当初約6ha)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) モダニズム建築としての名古屋城天守閣    谷口 元|名古屋大学 名誉教授
   
正面外観 二重らせん階段
■発掘者コメント
 昭和20(1945)年、焼失した天守閣の姿は名古屋の人々の心を打ち砕きました。焦土から起ちあがろうという人々にとって「戦災などで2度と失うことのない技術で蘇らせたい」という気持ちが切実でありました。多くの人々の寄付を集め、現存する鉄骨鉄筋コンクリート造の天守閣は昭和34(1959)年に完成しましたが、その設計を担当されたのが城戸久氏(1908-79年)でした。彼は建築の歴史に関する専門家で名古屋工業大学の教授を務められ、多くの城郭建築の研究と再建に携われました。焼失前の名古屋城の図面や資料が多く残っていた事は、専門の城戸氏は恐らく重々承知の上で天守閣の設計をされました。ただ再現するのではなく人々が天守閣を楽しめるようエレベーターや水廻りも備えた現代建築にしました。動線を円滑にするため二重らせんの階段を建物の中心部に備え、外観も窓などのデザインを意図的に現代的な四角の窓にしたのです。なぜそう設計したかは城戸氏の正しい歴史観にあります。歴史の歪曲とか誤解が生まれることを避けるために、意図的に原型と違うデザインを用いています。失われた名古屋城の記憶を永久に蘇らせたいという市民の気持ちがこもって再建されているこの建物こそを後世に遺したいと切に願っています。二度と不幸な戦いの過ちを繰り返さないようにとの、戦中戦後を生き亡くなられた多くの人々の気持ちを永遠に忘れないために……。
所在地:名古屋市中区本丸1-1
築城主:徳川家康→名古屋市
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:石垣積+ケーソン基礎、
     連結式層塔型
     5層5階地下1階
築城年:慶長14(1609)年 非現存
    1959年再建
    (SRC 造・外観復元)
改修者:名古屋城再建委員会
設計者:城戸 久
施工者:間組