だれもが知ってる
建築史のはなし
<第5 回>
諮る
溝口正人|名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授
  みぞぐち・まさと|1960年三重県生まれ。名古屋大学卒、同大学院修了。清水建設設計本部、名古屋大学助手を経て現職。専門は日本住宅史、漢族・少数民族住居誌。文科省文化財保護審議会第二専門調査会委員、愛知県文化財保護審議委員、重要伝統的建造物群保存地区保存審議委員(妻籠, 奈良井, 足助など)。町並調査(美濃, 醒井,犬山,足助, 有松, 揖斐川など)、近代化遺産調査(秋田, 鳥取, 愛知)、名古屋城本丸御殿・湖西市新居関の復元などに従事。写真はヤオ族の子どもとともに。
 私のパソコンの漢字変換ソフトウェアによれば、「諮る」 とは、ある問題について他人の意見を問う、専門家などの意 見を聞く、とあります。今まで取り上げてきた「はかる」が、 行為を起こす主体目線の言葉であったとすれば、諮るとは、 ことの妥当性をはかる。他者を意識した「はかる」であると 言えます。建築行為の諸事象で「諮」ることの諸相が今回の テーマです。
禁忌(タブー)を諮る
 現代でも、家相を気にされるお施主さんは多いのではな いでしょうか。なにより、フォスターが設計した香港上海銀 行本店の足元がピロティーになっている理由のひとつに風 水の吉凶があり、ペイが設計した中国銀行タワーの鋭角の コーナーがその香港上海銀行ビルに向けられているのは、 ライバルの運気を下げるためだと噂されたり、ことの吉凶 が天と地の理に基づくと考えられているアジアでは、巨匠 建築家さえも、その理に従わざるを得ない。今も昔も建築行 為とタブーは切り離せません。そして建築にかかわるタ ブーは、建物そのものの形態の議論におよぶ。香港上海銀行 ビルのケースは、その最たるものといえるでしょう。日本で も、建物の形態は吉凶とは無関係ではありませんでした。
 平安時代、摂関政治が頂点を迎えていた長元元年 (1028)、関白藤原頼通の邸宅である高陽院を天皇の住まい とするべく改造が必要となりました。天皇に吉凶が及ぶ重 大事ですから、関白自身から関係者たちに、工事の是非が諮 られます。貴族、源経頼の日記『左経記』には、ことの経緯が 細かく記されていて興味深い。
 禁忌は「凡当梁歳正寝、正堂、上梁、竪柱、不利家長、多凶少 福、財賄耗散出臨官」とのこと。つまり、梁年(天梁に相当する 戊辰・戊戌の年、地梁となる庚辰・庚戌の年)における「正寝」 「正堂」の工事は、家に災禍が及ぶ。いわゆる年回りが悪いと いうものです。もちろんこのタブーは、読んでの通り中国由来 のものですから、日本においてどの建物が「正寝」「正堂」に相 当するのかが問題となります。そこで識者に諮ったわけです。  ところが上がってくる吉凶判断の前例は、今日では国会議事堂に相当する大極殿の事例だったり、皇居である内裏 の建物だったりして、議論はどうもかみ合わない。占い・天 文・暦を所轄する陰陽寮の長官は「そもそもこのタブーは 暦を司る人間が言い出したこと。陰陽道(占い)ではタブー ではない。」として判断を回避する始末。識者それぞれが自 身の主張を述べるだけで結論は出ない。結局、凶事を怖れて か、工事は停止となりました。
 「群盲象を評す」となるか「三人寄れば文殊の知恵」となる か。中国の実態を知らない識者たちが、文言をひねくり回し て議論する状況は滑稽でもありますが、幅広く識者を集め た審議会であれば、議論が発散して結論が出ないのはよく ある話です。
 
図1|平城宮大極殿
 
図2|京都御所紫宸殿
形式を諮る
 一方で建物形態における日本固有の状況があったことが、 この議論を複雑にしたのでした。取り上げられる大極殿と内 裏(皇居)の建築様式の相違は、奈良の平城京に復元された 大極殿(※図1)と京都御所の正殿である紫宸殿(※図2) とを比べれば明らかです。瓦葺きに土間床の大極殿は中国 直輸入の形式、紫宸殿は檜皮葺きと高床に示されるように日 本古来の形式といえる。大きな相違です。モンゴル民族の王 朝である元の首都、大都の宮殿では、パオ(ゲル)が設けられ ていて、民族固有の建築観を示すものとして興味深いのです が、実は異なる様式の併存という点では日本の宮殿も同様で あった。現代日本の住まいでも「リビング・ダイニング」には、 テーブルにイスのダイニングと、こたつ机を置いた居間が同 居しています。住まいに顕在化するこのような空間は、人々 の奥底にある重層的な建築観を示しています。  生物とは異なって進化の系統図でうまく語ることができ ないのが、建築の建築たるゆえん。むしろ両義的であること こそ、建築が持つ本質的な性格でもあります。実は、その形 式を諮られるのが建築家といえるのでしょう。  
図3|関宿地蔵院本堂
法を諮る 
 伝統の如く人々の感覚に染みこんだ建築観が建物のあり様に目に見えない影響を与える一方で、人為的につくられ た社会制度は、建物の形態を限定します。高さ制限、斜線制 限、日影規制、天空率、建築規制は時代とともに変化し、その 投影としての建物の形も大きく変化してきました。頂部が 斜めにカットされた建物、コーナーのギザギザ、何気ない形 にも法の影響が及んでいます。
 実は伝統的な美と技術の産物として見なしがちな近世以 前の建築も、それぞれの時代における法の反映でもありまし た。特に平和が訪れて資本の蓄積が進んだ江戸時代は、建物 に関する厳しい法規制が存在した時代でもあります。封建社 会では序列化された身分相応が判断基準でしたから、庶民の家はもちろんのこと、武家住宅、はては社寺仏閣まで、秩序 を可視化する存在である建物の規模や意匠にさまざまな規 制がかけられました。今日見る近世の建物の多くは、そのよ うな規制に適合するのか、諮られた結果の姿でもあります。
 三河東部から遠州西部にかけて分布する釜屋建てと呼ば れる民家の形式は、太平洋側を中心に分布する分棟型の形 式のひとつで、新城市の望月家住宅が国重要文化財に指定 されています。火を使う釜屋と居室部とを分離する分棟型 は、東南アジアの島々にも存在が確認され、ヤシの実ととも に黒潮にのって日本列島にたどり着いた形式としてノスタ ルジックな文化伝播論で関係づけられるのですが、実は規 制の産物と考えられています。
 江戸時代では、民百姓は管理すべき対象であり、日常生活 のさまざまな行為が制限されていました。贅沢の発露であ る居宅は、畳敷きや天井仕上げ、長押の使用、果ては開口部 の大きさまでが制限の対象でした。一方で土間部分は、年貢 を生み出す生業の場として規制の対象から外されます。釜 屋建ては、先行する形式は土間が一体であり、時代とともに 釜屋を別棟とする形に変化して成立したようです。まさに 制限を逆手にとって規模拡大を図った結果というわけで す。今日見る特徴的な民家の形式成立の背景には、近世特有 の規制の存在が透けて見えます。
 規制の対象は信仰の発露となる寺院本堂にも及びます。 寛文8(1668)年、幕府から出された「寺院作事法度」では、 梁行きは京間で3間まで、四方に「しころ庇」1間半までが 規模の上限とされ、この制限を外観で可視化した仏堂がで きあがりました。亀山市関宿の地蔵院本堂(国重要文化財) は元禄13(1700)年建立ですが、屋根に段を付けた錣(しこ ろ)葺きで合法性を表現しています(※図3)。
 諮られた結果が建築。国立代々木競技場の設計者が丹下 健三に決まった経緯は、ほとんど施設特別委員会委員であ る岸田日出刀の独断にあったことはよく知られています。 名建築に名伯楽あり。諮る側は、諮るべき謀りごとはなに か、慎重に考えるべきなのでしょう。