保存情報 第174回
登録有形文化財 明眼院旧多宝塔    谷村 茂|R&S設計工房
 
金剛力士像 尾張名所図会 旧多宝塔 
■紹介者コメント
 明眼院(みょうげんいん)は大治町役場の東 側にある天台宗の寺院である。日本最古の眼 科専門の医療施設と知られているが、現在、 医療行為はしていない。現敷地の入り口両側 には赤く塗られた囲いに2体の金剛力士像(町 指定文化財)が安置されている。
 その入り口をくぐると看板があり、描かれ ている尾張名所図会を見ると、かつてはかな り広大な敷地に土塀を巡らし、本堂、多宝塔 以外に方丈、客殿、書院、庫裡を中心とした居 住施設群がみられる。「大治町史」によれば、 延暦21(802)年に最澄の弟子である聖円が、 「五台山安養寺」として開基したのが始まりとされている。その後、眼科治療の名声が朝廷 に伝わり、後水尾上皇の皇女の眼病治療にあ たったことから「明眼院」の称号を与えられた 由緒ある寺院のようだ。
 旧多宝塔は大日如来坐像を安置することか ら「大日堂」とも呼ばれており、建立は寺伝に よれば室町時代とされる。当初は二層構造の 多宝塔であったが、濃尾地震で大きな被害を 受けたのち、上層は撤去され、下層のみとなっ ている。その際に相輪も2つを残して撤去され たようだが、恐らく、石山寺多宝塔のように初 層が方形で上層が円形で方三間の角柱でくま れ、格天井を張った様は規模も似た多宝塔の 佇まいであったと想像される。
 1741年に再建された本堂は伊勢湾台風で被 害を受け、RC造に建て替えられ、寺院全体も 荒れ果てているが、石垣、裏庭、土塀等に創建 当時の面影が残っている。 

所 在 地:愛知県海部郡大治町大字馬島字北割114
所 有 者:宗教法人明眼院
建 築 年:慶安2(1649)年/
       明治中期(1883~1897年)・
       昭和45(1970)年改修
構造・規模:木造平屋建て、瓦葺き、建築面積22㎡
登 録 番 号:旧多宝塔 23-0420(国登録有形文化財)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) JR武豊線    浅井裕雄|裕建築計画
   
亀崎駅 ボナール型橋梁 武豊線橋梁 
■発掘者コメント  明治19(1886)年に開通したJR武豊線は、愛 知県下で最初の鉄道と言われています。本来の 目的は、日本の幹線鉄道建設に向けて武豊港 (衣浦港)から建設資材の運搬をするためで、熱 田までの33キロを結んだ路線です。建設は武 豊から始まったため、武豊へ向かう電車が上り 電車として表記されていたようです。現在は大 府から武豊までの路線を言い、知多半島の通勤 通学の手段として活躍しています。  見どころは、開業当初からある日本最古の駅 舎、亀崎駅。木造の駅舎で切妻屋根に下屋で回 廊を形成していて、ホームは当時の石積みで手 仕事が見えます。次に半田駅には明治43(1910)年完成の日本最古の路線橋があります。 また、路線橋脇には明治42年完成のレンガ倉 庫があります。さらに、旧武豊港内(JR武豊駅 の少し南)にある貨物列車用の転車台は平成21 (2009)年に登録有形文化財に指定されていま す。橋梁もかなり古く、元々、武豊線は幹線鉄 道の建設目的の路線で、完成後は解体される 予定でしたが、開通後すぐに客車の運行も認可 されたこともあり、当初の木造橋梁は英国人技 師の設計による鉄骨製に明治24(1891)年頃か ら順次替わっていきました。ボナール型の橋梁 デザインの特徴はI型の桁をラダー上の横つな ぎで橋梁を形成して、I型鋼はリブで補強が 入っています。
 知多半島の人々の足として残った武豊線で すが、日本中では地域の路線の廃止が相次い でいます。人口減少の日本では、今後も減って ゆくでしょう。成長期に日本の骨格をつくって きた産業遺構らは、簡単に失われていきます が、活用方法など、残す意味を議論して、価値 の多様性を見つけていきたいものです。 
建設年:亀崎駅|明治19(1886)
    半田駅路線橋|明治43(1910)年
文化財指定等:旧国鉄武豊港駅転車台        (登録番号|23-         0313)