フランスと日本の関係 ~対外文化政策のいま~ <第5回>
在仏日本人会の芸術活動
—パリの在留邦人たちによるネットワーク—
松本茂章|公立大学法人 静岡文化芸術大学文化政策学部教授
  まつもと・しげあき
早稲田大学教育学部卒、同志社大学大学院総合政策科学研究科博士課程(後期課程)修了。博士(政策科学)。
読売新聞記者、支局長を経て2006年4月から県立高知女子大学教授(現、高知県立大学)。
2011年4月から現職。
日本文化政策学会理事、日本アートマネジメント学会関西部会長、NPO法人世界劇場会議名古屋理事。
単著に『芸術創造拠点と自治体文化政策 京都芸術センターの試み』(2006)、『官民協働の文化政策 人材・資金・場』(2011)、『日本の文化施設を歩く 官民協働のまちづくり』(2015)(いずれも水曜社)
4つめの事務所
 パリにある在仏日本人会の事務所が2014年12月に移転したというので、2015年9月2日の水曜日、16区の新しい事務所を訪れた。メトロ9号線のアルマ・マルソー駅で下車。地上に上がるとセーヌ川のそばに出る。周囲は閑静な住宅地である。アルマ通りを北に歩いて3-4分。レトロな建物の地上階と地下1階に同会事務所が入居していた。木製ドアを開けると、カウンター越しに事務局長の高橋幸隆(1957年生まれ)が出迎えてくれた。「引っ越す前に比べると狭くなったが、駅から近くていい場所」と笑顔で話す。地上階に執務室と語学教室。地下に語学教室と作業室。広さ58平方メートルの月額家賃2500ユーロである。以前は130平方メートルの月額家賃5000ユーロだったので、より安い物件を探した。 在仏日本人会は仏国1901年7月1日法に基づいた非営利組織(アソシアシオン)である。1958年に設立されたものの間もなく休眠。1975年に再建されて以降、年6回の会報発行や各種の相談業務、講座、クラブ活動など、在留邦人向けの生活サービスを地道に続けてきた。事務所は当初、8区のモンソー公園近くのアパルトマン(1981年まで)に置かれ、次いで16区のシャンゼリゼ通りに面したビルの5階(2008年まで)に、3度目が同区のシャイヨー通りの一角(2014年まで)、そして現在地に至る。
 2015年9月現在、法人会員と個人会員は各1000世帯。合わせて約2000世帯の約6000人が加入している。パリおよび近郊(イル・ド・フランス地域)の首都圏では、正規滞在とオーバーステイを含めて約3万人の邦人が暮らしているとされ、ざっと5分の1が組織化されている。日本人会の事務所というと、異国の地で邦人同士が情報交換を深めるところ。壁面一杯に「電気製品譲ります」「空き部屋あります」「家庭教師をします」「アルバイトを探しています」など張り紙のあるイメージが強い。しかし現在の事務所には張り紙をするスペースが見当たらなかった。インターネットやSNSの普及で、事務所を訪れなくても情報交換ができるようになったからだ。それは入会する邦人が減ることを意味する。会員数の減少は会費収入の削減につながり、財務は火の車なのだ。
シャンゼリゼ通りの27年間
 日本人会の活動が盛んだったのは、日本経済が強かった1980年代後半から1990年ごろにかけてである。数多くの日本企業がパリに進出した。現会長の浦田良一(1939年生まれ)(元日立フランス社長)によると、会員は1万人を超え、シャンゼリゼ通りに面した事務所(1981-2008)は、赤テントで知られる著名カフェ「フーケッツ」が1階で営業する建物の5階にあり、邦人が盛んに出入りしていた。入居前は廃墟同然で、自ら改装する代わりに相場価格の3分の1の割安家賃で入居できる好条件だった。当初は152平方メートル。1988年に同階の33平方メートルを借り足して計185平方メートルに広がった。このうち語学教室2つを区切る蛇腹式カーテンを開けると50平方メートルのホールに早変わりした。
 浦田や当時の関係者の話を総合すると、広いスペースに注目したのが洋画家の佐藤亜土(1936-1995)である。「美術展に活用できる」と考え、日本人会に対して「展示に使わせてほしい」と美術家仲間を代表して要望した。佐藤はパリの著名美術館で個展を開く実力者だったが、今でいうアートマネジメントの才覚があった。東京銀行パリ支店に交渉してショーウインドウ(高さ2・5メートル、幅3メートル)を若手美術家の作品展示に活用できるように話をまとめたこともあった。こうした実績を踏まえて当時の会長、小島亮一(1902-1992)が事務所の展覧会使用を認めた。日本人会の下部組織として1981年、日本人美術家で構成する日本人アーティストクラブ(NAC)が発足した。同クラブ会員ならば展覧会を開けるように窓口を一本化した。NACの展覧会は定期的に開催され、自分たちで会場設営、展示、運営、表彰、撤去、カタログ制作を担当した。しかし事務所移転に伴って部屋のスペースが狭くなり、展覧会を開くことは難しくなった。NACの展覧会は現在、政府系のパリ日本文化会館(15区)や民間の天理日仏文化協会(2区)などで続けられている。
事務所では日本語の新聞を読むことができる。常駐する事務局職員2人が笑顔で迎えてくれる(筆者撮影)
初代会長は異色の文化人
再建後の初代会長、小島亮一(1902-1992)(会長在職1975-1992年)は異色の人物である。東京・青山の呉服問屋に生まれ、1932年に渡仏してパリ大学社会学科に学んだ。1934-39年には国際労働機構(ILO)(ジュネーブ)に勤務。1939-45年は同盟通信社(共同通信社の前身)記者になり、ヴィシー政権のあった地方都市ヴィシーに赴任。マドリッド特派員で終戦を迎えた。戦後は仏人夫人と農業をしたあと1950-66年に朝日新聞パリ特派員とパリ支局長を務めた。退職後もパリ暮らしを続けた。随筆『ヨーロッパ手帖』で第10回日本エッセイスト・クラブ賞(1962)を受賞した。交際範囲が実に広く、企業人、芸術家らと分け隔てなく付き合い、佐藤亜土とともにNACを発足させた。日本人会の元事務局長、岡本宏嗣(1943年生まれ)は「絵描きや音楽家らと仲良しだった。日本人会では芸術家も活躍してほしいと願い、個人で渡仏した日本人を守りたいとのお考えだった」と振り返る。
 岡本によると、小島は亡くなる前に実家の土地(東京・青山)を売却し、一部である1億円の寄付を申し入れた。1989年12月、「公益信託 在仏日本人会小島亮一基金」の設立が認められ、日本側の信託銀行が受託者となった。「運用利回りを在仏邦人の生活向上、日仏交流推進のために助成金や奨励金、奨学金として広く配布しようというもの」(同会会報)で、活動助成と研究奨励の2つにわかれていた。基金は1億円なので金利5 %とすると毎年500万円の利回りが期待されていた。ところが1990年代半ばからは、日本のゼロ金利政策の影響を受けて、運用利回りが期待できなくなり、基金を取り崩して配分した。目減りが著しくなり、2007年3月をもって基金は終了した。基金からは、NAC展覧会カタログ制作費なども含めて、18年間で計145件、総額約6550万円が助成された。
在仏日本人会が入居する建物。地上1階と地下1階に事務所が置かれている(パリ16区で。筆者撮影)
日本文化センター的な役割を果たして
 上記から、シャンゼリゼ通りに事務所があった時代の在仏日本人会には、①芸術に精通したアートマネジメント人材が存在した②自分たちで場を自主管理した③小島基金という独自の財源を有した④表彰や賞金を通じて若手作家を育成した―などの事実が浮かび上がった。小規模といえども日本文化センター的な役割を果たしていた様子が判明した。日本政府が1997年にパリ日本文化会館を設置する以前は、在仏日本大使館の広報文化センター(凱旋門近く)と並んで、在仏日本人会事務所がわが国の芸術文化を欧州に発信する場の1つだったと再評価する声もある。日本人会の試みはもっと再注目されていいのではないだろうか。
 「芸術の都」らしく、在仏日本人会には芸術家が数多く在籍し、美術家の集う下部組織が存在する点は、他の世界主要都市と比べても独自性がある。会長の浦田良一は「パリにある在仏日本商工会議所の会員と日本人会の法人会員は重なるが、企業人の赴任と異なり、自らの意思で渡仏してきた個人会員には日本人会のサービスしかない。これからも何らかの形で芸術家たちを支援する在仏日本人会でありたいと考えている」と語った。