だれもが知ってる
建築史のはなし
<第4回>
図る
溝口正人|名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授
  みぞぐち・まさと|1960年三重県生まれ。名古屋大学卒、同大学院修了。清水建設設計本部、名古屋大学助手を経て現職。専門は日本住宅史、漢族・少数民族住居誌。文科省文化財保護審議会第二専門調査会委員、愛知県文化財保護審議委員、重要伝統的建造物群保存地区保存審議委員(妻籠, 奈良井, 足助など)。町並調査(美濃, 醒井,犬山,足助, 有松, 揖斐川など)、近代化遺産調査(秋田, 鳥取, 愛知)、名古屋城本丸御殿・湖西市新居関の復元などに従事。写真はヤオ族の子どもとともに。
 私のパソコンの漢字変換ソフトによれば、「図る」とは「いろいろと試みる。くわだてる。意図、企図(着想すること)」とあります。図ることの本質は、企てる「図」を描くことにある。設計の根幹は形を決めることにあり、図ることが必須。日本建築における「図る」「図らない」が、今回のテーマです。
古代、どこまで図ったのか
 平安京遷都は延暦13(794)年。桓武帝は、何度も工事現場を視察したことが史料に記されています。桓武帝が都の正門である羅城門の工事現場を視察したときに交わした工匠とのやりとりは、賢帝ぶりを示す逸話として説話集に取り上げられています。
 造営中の平安京を視察に訪れた桓武帝は、羅城門の前で工匠に門の高さを1尺低くするように言い渡します。そしてすでに瓦は葺かれ壁は塗り終わった羅城門を再び訪れたおり、まだ高い、もう5寸切らせるべきであったと嘆いたとのこと。これを聞いた工匠は、本来の高さ(長岡京に準じてでしょうか)に比べて1尺低くすると低過ぎて見苦しくなるため、5寸だけ低くしたことを白状します。羅城門は間口7間とも9間とも記される間口の大きな楼門で(※図1)、建つのは京の果てで風も強い。強風に対して脆弱な楼閣建築の危険を考えての天皇の指示でした。工匠は、堅固なつくりをさらに5寸切り縮めたのだから大丈夫ですと返答。竣工を優先した桓武帝はそのままでの完成を許容します。しかし果たせるかな20年後となる弘仁7(816)年8月、大風で門は倒壊し、桓武帝の危惧は的中します。
 次の主人公は保元の乱の原因を生んだ治天の君、鳥羽上皇です。1136(保延2)年、上皇は鳥羽離宮(現在の名神高速京都南インターのあたり)に宇治平等院鳳凰堂を模した勝光明院御堂を造立します。鳳凰堂は、この世の栄華を極めた藤原道長の息子である頼通が別荘のあった宇治の地に自身の美学を込めて造営した阿弥陀堂で、当時「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」(極楽が信じられなければ鳳凰堂をみなさい)と、至上の評価を受けていたのでした。勝光明院御堂以外でも鳳凰堂が影響を与えた寺院は多い。上皇はそんな鳳凰堂をまねるべく、わざわざ工匠を宇治に派遣して、寸法をはからせたことが知られています。
 ところがそのまま完成したのかといえば、大違い。鳥羽上皇は現場へ足を運び、組み上がった2階の軒下に安置される予定の菩薩像の現物を並べさせて確認します。結果、2階の柱を7寸切り縮め、両翼の廻廊は斗栱(組物)を一段外したのでした。当然、菩薩像は内法で納まらなくなります。上皇の近臣、源師時の日記『長秋記』には、困り果てる周囲の様子が記されて興味深い。
 当時は多くの仏像を林立させる行為は「多数作善」の考えに基づく善行です。ただし三十三間堂の果てしない長大さが示すように、建築的にバランスを失した状況も出現する。彩色した高さ4尺の菩薩像32体を2階周囲に並べる勝光明院御堂の原設計は、鳳凰堂を参照しつつも時代の風潮を加味したもので、仏像の設置を優先させた階高でバランスを失した外観だったのでしょう。そのことを鳥羽上皇は良しとしなかった。しかし組物を外す変更は、建物の根幹に関わる大改変。美に直結するプロポーションの問題とはいえ工事途中にこのような検討が行われたことは驚きです。
 昭和の解体修理によれば、至上の美を誇る鳳凰堂でさえ工事途中の変更が確認されています。古代建築の完成像は予め図として用意されたものではなく、建造過程で現物として可視化される中で醸成されるものであった。最初からは図らないことが、古代の実態であったといえます。設計図書の存在が不可欠な今日との大きな相違です。一方で、古代においては工匠の感覚で建築の形が決まっていきました。この点は、建築家による一品設計の現代建築と異ならない。時代を越えた設計の本質ともいえます。   
 
 図1|平安京羅城門復元図(『甦る平安京』より) 
 
図2|日光東照宮陽明門(背面) 
近世、どこを図らなかったのか
 地方の領主が自力をつけた中世以降、地方で生じた多くの建築需要に対して、建築家たる工匠たちがどのように対処したかは興味深い。古代のように建物ごとに形を決めていては、とても需要に対応できるとは思えません。であれば、決めるべき要素、考える余地をなくせばよいわけです。そのような考えに基づいて生まれたのが木割であるとも理解できる。大量生産の論理に基づいて、創造という不確定要因を排除することで過去の約束された美を再生産するわけです。豊穣な装飾で随一といえる日光の陽明門ですが、装飾要素を除いてみれば思いのほか均整の取れた楼門であることがわかります(※図2)。全体の形は図るべき対象とはならなくなった。つくりながら決めていく古代の大らかさに比べ、近世の社寺建築がお行儀がよくて窮屈に思われてしまうのも、全体を図ることを排除したからだといえそうです。
 では近世ではどこを図ったのか。まさに日光の諸建築が示すように、装飾こそが図るべき対象となった。社寺建築では、美術工芸品と同様に様式技法の観点から時代的な編年がなされていて、近世では絵様や彫物装飾などの形式から建造年代の判定が可能な状態です。図られるべき部分としての装飾は時代の流行を生みだし、そのことで時代を測ることが可能なわけです。部分への関心の高まりから、江戸後半から明治にかけては、パターンブックとしての雛形本の出版が盛んになります。木鼻や欄間、違い棚などの、さまざまなパターンが収録されていて、それらの組み合わせで建物ができあがっていく。
 社寺建築では図面は残されていますが、民家などで今日の設計図書にあたるような図面を目にすることは多くはありません。明治時代の某家の調査で見ることができた板図は稀少な事例といえますが(※ 図3)、墨書きの平面に筋引きで根太や屋根の架かりを書き込んだ簡単なものです。図面が必要ないほどにお決まりの部分があって、直角と水平の組み合わせで軸部を組み上げるならば、この程度の図があれば、あとは決めごとで建物はできあがる。図るべきは見せ場となる意匠。そのひとつが不必要とも思える土間廻りの豪快な梁組であったと考えられる。梁組みの力強さに、素朴さへのノスタルジーを感じるのは、お門違いなのだといえるでしょう。
 古代のように、約束されない美がものづくりの現場で生み出される過程は、ドラマティックではありますが今日の生産現場では考えにくい。しかし図ること、すなわち「いろいろと試み、くわだてる」ことに設計の喜びがあるのならば、冷静に失敗を回避すべく、手順どおりに進めた生産の結果として生み出される約束された美に、物足りなさを感じるのも事実。「冷静と情熱のあいだ」こそ、建築における設計のあるべき姿なのかもしれません。 
 
図3|某家(明治44年建造)板図 軸部に関する書き込みのみです