フランスと日本の関係 ~対外文化政策のいま~ <第4回>
ベルタン・ポワレ文化スペース
パリにある民間文化施設
松本茂章|公立大学法人 静岡文化芸術大学文化政策学部教授
  まつもと・しげあき
早稲田大学教育学部卒、同志社大学大学院総合政策科学研究科博士課程(後期課程)修了。博士(政策科学)。
読売新聞記者、支局長を経て2006年4月から県立高知女子大学教授(現、高知県立大学)。
2011年4月から現職。
日本文化政策学会理事、日本アートマネジメント学会関西部会長、NPO法人世界劇場会議名古屋理事。
単著に『芸術創造拠点と自治体文化政策 京都芸術センターの試み』(2006)、『官民協働の文化政策 人材・資金・場』(2011)、『日本の文化施設を歩く 官民協働のまちづくり』(2015)(いずれも水曜社)
同時多発テロの夜
 パリ1区にある日本系文化施設「ベルタン・ポワレ文化スペース」の小劇場では、2015年11月13日(金曜)の夜、コンテンポラリーダンス公演が行われていた。終了直後の午後10時、観客の1人が受付に銃撃戦があったらしいと伝えた。職員が調べると、直線距離で2キロ先のバタクラン劇場(11区)で観客を人質にした立てこもり事件が発生中だった。運営する天理日仏文化協会の会長、津留田正昭(1959年生まれ)は公演に立ち会っており、即座に大きな声で指示を出した。「お客さまはすぐお帰りくださいッ。メトロはまだ動いていますッ」「公演後のカクテルパーティーは中止ですッ」。出演ダンサーの1人はまさにバタクラン劇場のすぐ隣に住んでいて帰宅できない。その後地下鉄が止まったため帰れない観客も2人出た。結局、協会の男性職員ら7人を加えて計10人が夜明けまで小劇場に居残った。家族や友人らの安否が心配だったので、気持ちを落ち着かせるためにワインなどを飲みながら事件の沈静化を待った。外の大通りにはパリ警視庁のパトカー、救急車、機動隊を乗せたトラックなどがサイレンを鳴らしながら走り回っていた。地下鉄が動き始めた午前7時、全員が帰宅した。翌14日は全館を休館にした。
 津留田の回想。「出演したダンサーの友人がバタクラン劇場で働いており、心配でたまらない様子だった。SNSで情報を取りながら一夜を明かした。全員無事で本当に幸いだった」 
パリの日本系アートセンター
天理日仏文化協会(AssociationCulturelle Franco-Japonaise de TENRI)は仏国1901年法に基づく非営利組織(アソシアシオン)で、1971年に設立された。当初は14区に立地したが、手狭であることなどから2000年5月、セーヌ川右岸の現在地に移転した。語学センター(日本語と仏語)、文化活動(図書館の開放、茶道・華道教室など)、アート活動の3部門で構成される。17世紀の歴史的建物のうち、地上1-2階および地下1階を借りている。地上1階には語学教室11室と図書室。ロビーには机3脚といすが置かれ、語学センターの生徒らが談笑できる。2階は館長室、執務室、料理教室など。地下1階には小劇場(86平方メートル)、美術ギャラリー(48平方メートル)、多目的スペース(30平方メートル)を備えている。このうち地下1階部分の芸術創造拠点を「エスパス・キュルチュレル・ベルタン・ポアレ(Espace Culturel Bertin Poirée)」と呼んでいる。「エスパス」とは仏語で「空間」「スペース」のこと。ベルタン・ポワレ文化スペースと訳していいだろう。同文化スペースでは演劇、美術、照明に1人ずつ担当者がいる。
 1区といえばパリの真ん中である。東西に流れるセーヌ川の右岸沿い道路と著名なリヴォリ通りの間を結ぶ南北約300メートルの小さな通り「ベルタン・ポワレ通り」に面して建物がある。地の利に恵まれている。界隈には地下鉄の路線計5本が集まっているうえ、パリ郊外と都心を結ぶRER(高速郊外鉄道)ともつながり、交通の便は抜群だ。徒歩5分程度で有名なシャトレ劇場やパリ市立劇場に至る。ポンピドゥー芸術文化センターとは徒歩10分くらいだ。小劇場もあって芸術家たちが集う地域なので、創造的な環境のなかにある。
天理日仏文化協会の外観(2014年9月13日撮影)(写真はすべて筆者撮影)
ダンスの拠点
 小劇場を切り盛りするのが静岡市出身のディレクター大谷知子(1958年生まれ)である。同志社女子大学大学院を修了して京都府立高校で家庭科講師として勤務しながら、京都労演の運動にかかわり運営と決意して1992年に渡仏する。パリでは自主的に、日本の劇団やダンス集団のパリ公演をプロデュースしているうち、よく知られるようになった。いつも帽子姿だったので「大きな帽子のトモコさん」と親しまれた。在仏日本大使館・広報文化センターの運営を無償で手伝っていたところ、「移転先の場所が広いのでスペクタクル(舞台芸術)を行いたい」と切望して人材を探していた当時の天理日仏文化協会長に見出された。「一緒にやりませんか」と声がかかり、快諾した。
 小劇場では年3度のフェスティバルを行う。3月はコンテンポラリーダンスを取り上げ、6月には舞踏ダンサーを集める。秋には演劇、ダンス、音楽など幅広い芸術を特集する。最も力を入れているのが6月の「ブトー・フェスティバル」だ。竹之内敦志、岩下徹、岩名雅紀、室伏鴻、桂勘、今貂子……らが出演してきた。エッフェル塔近くにある外務省系のパリ日本文化会館(15区)事業担当者らも同文化スペースの取り組みに関心と敬意を持ち、互いに招待状を送り、チラシを置き合っている。津留田のところには、在仏大使館などから、日程や場所の都合でどうしても受けられないものの、大切な文化事業なので何とかできないか、などの連絡や相談がときおり寄せられるという。官と民が互いに補完し合っている。
天理日仏文化協会地下の小劇場(2012年8月30日撮影)
新たな時代に向けて
それにしても、なぜ天理教がパリに進出したのだろうか? 津留田によると、「パリが、当時教勢の広まっていたコンゴの教会への中継点であったこと、欧州における交通・文化の中心地だったこと」などが理由だったという。1970年に教団パリ事務所が開設され、翌71年に「日仏の相互理解を深める」ために同協会が誕生した。津留田は中京大学文学部2年生だった1980年、ラオスに布教していた名古屋大教会から派遣されてパリに留学した。その後長く日本語教師を務めてきた。一時の帰国を除いて30年余り、在仏生活を続けている。
 協会によれば、協会設立時の費用は教団が負担し、建物も教団出資の不動産民事会社が購入した。津留田は「仏国は文化の国なので芸術支援などの社会貢献を行わないと評価されない。一方で、政教分離が厳しい国なので館内では一切布教活動を行っていない。信者かどうかは問わず、純粋に語学教育と芸術支援に徹してきた」と強調した。語学センターはパリで最大級の日本語教室である。これまでの活動の功績が認められ、同協会は設立40周年の2011年、日本政府から外務大臣表彰を受けた。
 同文化スペースでは改装工事が2014年7月から10月にかけて行われた。地下へのエレベーターを新設し通路や非常階段の幅を広げた。図書室前の階段にも簡易エレベーターを設置した。行政当局の確認検査が翌15年2月にあり、同年3月に合格の連絡を受けた。会長の津留田は「懸案が解決してほっとした。これで20年間は文化施設として使える。もっと活用していきたい」と決意の言葉を語った。改装のきっかけは2012年の県庁による定期視察だった。従来、地下に降りる方法が階段しかないなど設備面で十分ではないところがあった。同協会はこれまでの蓄えから総額33万ユーロの費用を投資して改装に踏み切った。おかげで懸案が解消できただけでなく、公共施設としてのカテゴリーが1段階上がった。劇場収容人数は従来の限度19人だったところ、新たに限度80人の劇場として認められた。館内全体では同時に300人の収容が可能となった。新たな時代が始まったのだ。
 冒頭の同時多発テロのあと、非常事態宣言が出され、展覧会や講演会の一部でキャンセルが出たという。それでも津留田や大谷ら同協会職員は「改築で新たな法的な許可を得て、一層、日仏文化交流の懸け橋となれるように努めたい」と誓っている。(敬称略)  
   
 図書室入口に新設された簡易エレベーター(2014年9月12日撮影) 茶道教室の様子(2014年9月12日撮影)