だれもが知ってる
建築史のはなし
<第3回>
計る
溝口正人|名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授
  みぞぐち・まさと|1960年三重県生まれ。名古屋大学卒、同大学院修了。清水建設設計本部、名古屋大学助手を経て現職。専門は日本住宅史、漢族・少数民族住居誌。文科省文化財保護審議会第二専門調査会委員、愛知県文化財保護審議委員、重要伝統的建造物群保存地区保存審議委員(妻籠, 奈良井, 足助など)。町並調査(美濃, 醒井,犬山,足助, 有松, 揖斐川など)、近代化遺産調査(秋田, 鳥取, 愛知)、名古屋城本丸御殿・湖西市新居関の復元などに従事。写真はヤオ族の子どもとともに。
私のパソコンの漢字変換ソフトウェアによれば、「計る」とは「数量や時間を調べ数える。また、試み企てる。計算、計量、計画、計略」とあります。計画、設計、矩計、「計」ることは建築設計の根幹にある。量ることも「調べる」ことですから、「数える」点が計ることの大きな違いといえます。建築がいかに「計ってきたか」、あるいは「計ってこなかったか」が、今回のテーマです。
数を計る
 このアングルで写真を撮ったのは何枚目でしょうか(※図1)。左手前の東京海上(日動)ビルは、われわれの世代では忘れられない建物。31mラインでそろう皇居前の景観に、「この高さは許されるのか。皇居を見下ろすことがそもそもけしからん」みたいな議論があった。結果、高さを減じて実現したのではなかったかと記憶しています。現状はこの通り。まわりのスレンダーなビルに埋もれて、今となってはずんぐりとした印象は否めません。生みの親であり、建築家の良心の塊とされた前川国男は天国でどのような思いなのでしょうか。
 是非を論じているのではありません。ルールは必須ですが、時代の都合で変わる。スポーツにも通ずるものです。丸の内は、そもそも大名屋敷の跡地で練兵場の野原となっていた土地ですから、あるべき姿は過去にはない。時代時代のルールが、丸の内には必要だったといえます。東京海上ビルは、新たな時代を計れなかった。外苑の時代を計らずして新国立競技場は、舞台に上がることはできません。発表された新たな案はどうでしょう。
 マンハッタンの景観はアメリカの経済力を物語るものといえますし、高く高く建ちあがるエネルギーを押さえるべくゾーニング法が生まれ、特徴的なビル群が形成されました。日本の現行法規のもとでも建物は様々に形を変えます。しかし数を重ねると、時には見えないルールを可視化する。そんな役割を建築は演じるようです。日々景観を変えていく名古屋駅周辺のビルたちは(※ 図2)、どのようなルールを可視化するのでしょうか。
図1|皇居外苑から見た丸の内の景観 図2|名古屋駅前の景観(2015.6時点)
数で計る
 目に見えない小さな粒子に質量があるかどうか、それが宇宙のあり方で決定的な意味を持つことで昨年は盛り上がりました。こうでなければ説明が付かない、さまざまな事象を体系の中で説明したい、把握したいという欲求は、対象や時代の相違を越えて、人間が持つ根源的な欲求です。建築の分野を生業とする人間が、体系立てて物事を把握したいと考えるのは今も昔も変わりません。
 建築の場合、建物各部を比例で数値化して体系立てようという考えは、洋の東西を問わず共通した考えです。古典的な設計術は「数量を調べ数え、試み企てる」こと。まさに「計る」ことにあると言えるでしょう。西洋の古典建築は、ウィトルウィウス以来の形式性をいかに比例で精緻に組み立てるかが、美を約束する唯一の手立てであり、設計のすべてであったともいえます。日本における木割も計ることの典型でしょう。規則性により比例化された部分の集積で美が約束される。形は数で計れるのであり、数で計れない形に美は存在しないのです。
 一見怪しげな意匠の明治の擬洋風建築でさえも、この思想は徹底されています。グラバーは、西洋的な素養もない日本の大工が、簡単な図を見せただけでグラバー邸をつくり上げた驚きを日記に記していますが、建築を数で計れるのは大工のお手の物。擬洋風建築でさえ、明治半ばには数で計れる建築として木割書に組み込まれました(※ 図3)。数で計ることの汎用性を示しています。 
 
図3|明治の技術書にみる木割化された洋風建築
時間を計る 
 すでに現前にある美しい建築をいかに確実に再生産するか、そのための方法はなにか、それが時間を計る前近代の設計の論理でした。美しい過去の積み重ねが未来へとつながるという考えです。一方、近代主義は、過去を美しいものとして描きませんでした。参照すべきは現在であり、美しいものは予想される未来にあるとしました。結果、さまざまな主義主張や計画が浮かんでは消えました。今がなくて将来があるか、今だけのことを考えていたら将来があるか。議論は堂々巡りとなりますが、少なくとも過去に学ばずして未来はないのでしょう。
 文化財建造物や町並みの保存にかかわる建築史研究者に求められる重要なスキルが、建物の年代判定とそれを踏まえた価値付けです。建築史研究者は骨董屋として目利きでなければなりません。古いものだから保存すべきだと、雑ぱくに論じる学者さんもいないわけではありませんが、優秀な骨董屋とはいえませんから、そこで掴まされるのは紛い物である可能性は高い。必要とされるのは、残すべき価値がどこにあるかであって、古いから良いわけではない。ですから文化財の評価は、時間を計ることにあると考えています。ウブな建物も良いけれど、古建築たちは、年齢相応の魅力があります。時代の評価に耐えてきた建物たちには数で表されるモノのかたちの意味がある。かたちの意味を知ることは、その背後に蓄積された時間を計ることでもあります。 
時間で計る 
 新築のときがもっともきれいで、あとは崩壊が進むだけと現代建築を揶揄する声も聞こえてきますが、いずれにせよ、近代では時間で計ることが禁忌とされ、その考え方が再考されているのが現代ということになるのでしょう。メタボリズムは、時間で計ることの可能性を示してくれました。しかし中銀カプセルタワービルはコトとしての未来を的中させましたが、モノとしての未来は予見できませんでした。時代の変化に耐えうる建築を生み出すこと、時間で計ることの困難さを知ります。
 耐震、機能、省エネ。生真面目に対応していたら、建物も長生きはできません。柳に風折れなし。のらりくらりとやり過ごすことが長生きのコツ(※ 図4)。マッカーサーのスピーチではありませんが、自らの義務を果たして一介の老兵として消え、記憶の中に留まることも、建物のひとつの選択肢だといえます。時間で計り得るのが名建築なのだといえるかもしれません。
 「計る」ことの意味は再評価されて良い。実測至上主義の歴史屋の手前味噌な結論に至ったところで誌面が尽きました。研究にせよ、設計にせよ、計画通りに進む試しはありません。「計る」ことが、現在の私に最も欠けているようにも思えてきますが、「計る」ことで尽きないのが人生だと達観し、新年を迎えることとしましょう。 
図4|修理可能なことは、時間で計る上で重要なポイント