建築家は、リージョンをもつ。
第6回
「おわり」にむけて。

黒野有一郎|一級建築士事務所 建築クロノ
  くろの・ゆういちろう|1967年、愛知県豊橋市生まれ。
武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。
1993年より野沢正光建築工房。「いわむらかずお絵本の丘美術館」「長池ネイチャーセンター」などを担当。
2003年、同事務所を退所し豊橋へ帰郷。
2004年、一級建築士事務所 建築クロノを設立。
2014年より豊橋技術科学大学建築・都市システム学系非常勤講師。
現在、「大豊協同組合」代表理事、アートイベント『sebone』実行委員長、駅前デザイン会議常務理事・事務局などを務める
 建築家は、地域へどのようにアプローチして、地域とどのようにかかわっていけるのか?地方都市・愛知県豊橋市の「まちなか(駅前)」エリアと「水上ビル」における10年間の活動を、一例として紹介する。先回の広言を果たし、恩師・野沢正光氏へのインタビューをさせていただいた。また、これまで「豊橋」で行ってきた活動や、今後の展望について触れ、水上ビルの「おわり」に向けて現時点で空想することを書いてこの連載を閉じたい。
野沢さんへのインタビューから
 この連載を機にあらためて、野沢正光さんにインタビューをしたいと思い、8月末に事務所を訪ね、「地域における建築家像」について、現在の考えを聞いた。
 「建築のやり方が変化してきている」と言う。「新築することばかりでなく、減築や環境改修、建築の一部(パート)を受け持つようなことが仕事になってきている」自身が代表を務める(一社)住宅遺産トラストを例に挙げ、「古いモノを愛でたり(評価)、見守ったり(保存)、直したり(修繕)することも建築の大切な仕事として、位置を占めるようになってきた」と説明する。
 「建築家はとかく、“都市の風景”ばかりを見がちで、野沢さんの師である大高正人先生がよく口にしていた“農村”という言葉が、最近になって“農村の風景をみること”の必要性を主張されていたのではないかと理解した」と言う。“農村”は、つまり“地方”や“地域”に置き換えられ、「地域における建築家が各々の地域をきちんと“みる人”でいることが大切だ」と説かれた。
 それでは、地域にいる建築家と、全国で活動する建築家(いわく、落下傘建築家)との関係について、ご自身が地方でのプロジェクトにかかわる際のスタンスは? と尋ねると、「どちらの立場にもなり得る」と前置きしながら、「(地域のことを)教えてくれる人がいなければ、上手くいかないし、コンペのルールで地元の建築家や設計事務所と組むようなケースもある。一旦、外に出て客観的な視点を持つ人がいることも重要だし、地域にいてネットワークを築くことも重要で、それは、落下傘建築家にはできないこと。だから、対等な立場、対等な関係でいられる状況をつくらなければいけない。この部分は、クライアント(例えば、行政など)の見識が問われるところでもある。建築家の仕事は、“誰とやると何ができるか”を考えるもので、パートナーによって、建築のやり方も変わってくる」とのことだった。
 続いて、JIAが地域社会にできることは? と聞くと「団体の信用は、個人の信用より先に立たない。仕事を取りに行くというより、個人として、地域の信頼を得ることが大事で、個人の信用を拡大させることで、地域のことを教えてもらえる建築家として活躍ができる」と言われた。
 最後に、「なぜ、リージョンと言ったのか?」については、やはり、憶えておられなかったが、「帰る場所があるのはいいことだよ」と。そこは、“地方への敬意”という僕の解釈のままに留めた。今回、このような機会をつくれたことは、とても嬉しく励まされる思いだった。
   
野沢さんとのインタビューの様子。ご自宅に泊めていただきました  20余年を経た「相模原の住宅」。名作チェアが並ぶリビングスペース 
「豊橋」での活動と展望
 2004年の帰郷から12年、『とよはし都市型アートイベント・sebone(セボネ)』も、「還(kaeru)」をテーマに12回目の開催を行った。干支が一巡したというわけである。
 今年は、口々に「例年以上に人出があった」という感想を聞いた。何が奏功したのかは断定できないが、企画やビジュアルが良かったとか、ひとえにメンバーのがんばりが評価されたのなら幸いであり、イベントとして定着してきたことは実感できる。これも水上ビル(=背骨)があるかぎり続けて欲しい。
 来年は、愛知県主催の「第3回・あいちトリエンナーレ」が豊橋でも開催される。「現代アートによる地域づくり」におけるロードマップ作成に参画した縁もあり、県・市の担当者やキュレーターとの交流が始まっており、商店街や『sebone』との連携も考えていくことになる。
 水上ビル以前「だいほうマーケット」があった駅前大通2丁目地区での大規模な再開発計画にともなう「まちなか広場」の検討会議への参加や、併設される「まちなか図書館」、駅前大通などのストリートデザイン事業への議論にも大いに首を突っ込むことになる。
 また、詳しく触れることができなかったが、「豊橋駅前大通地区まちなみデザイン会議(=駅デザ会議)」では、これら、駅前エリアで起こるまちづくりに関連する事業の民間側の受け手となるべく、各事業者や商店街、自治会などで組織した協議会であり、ここに来て、その役割を発揮できる状況が醸成されつつある。
 帰郷したころ、「10年後にこの地域で、(ある程度)信頼されるようになっていたい」と、ぼんやりとした目標を抱いたが、自治会長や商店街理事長を任せていただけること、行政からさまざまな場面で意見を求められるようになったことから、この目標が概ね達成できたものと自負している。
   
水上ビル(大豊ビル)50周年を記念して発行したタブロイド紙「DAIHOU journal」1 ~3号。
1号は、大豊ビルの歴史について                            
2号は、梅雨時アーケードを活かしたフリーマーケット「雨の日商店街」の特集号
3号は、アートイベント『sebone』の特集号                        
「おわり」にむけて
 水上ビルについて、商店街の理事長就任に際し、「20年生き延びる宣言」をした。「20年」は、築50年のRC造建築にとって、程よい猶予を残した時間設定だと思う。新規の出店希望者へは、投資に十分な期間と価値を提供できるし、居住者には20年後までに別に生活基盤をつくらなければいけないこと、つまり「おわり」を提示したわけである。ただ、20年後の社会はわからない。昭和40年代に建てられた大量のRC建築物は、同じく「おわり」の時期をむかえる。社会問題化は避けられず、公的補助や法整備などさまざなサポートが得られるかもしれないし、建築技術の進歩は、耐震や寿命の延長をさらに容易にするかもしれない。“元気でいること”が選択肢を拡げるのだ。
 水上ビルの今後について考えながら、「おわり」のことに思いを巡らすようになった。社会が縮小していくとき、例えば、1億3千万人分のストックを8千万人が引き受けても、5千万人分のストックが余る。全ては維持できないので、何かは残し、何かは捨てていかなければならない。この選別は大変な作業で、おそらく多くは建築家の仕事として、分担されるのではないかと思う。
 そのとき、果たして「おわり」は、悲しいモノだろうか? とも考える。「終末」とか、「看取り」ということとは違う、もっとポジティブな縮小への模索が、膨
張する社会(足りない社会)ではできなかった、縮小する社会(足りている社会)での「豊かさ」へとつながるのではないかと空想する。
 水上ビルは、いつか壊して、川(水路)に戻る。
 今年、『sebone』で上演されたオリジナル脚本による演劇作品のなかで、「水上ビル」を“船出の時を待つ客船”に例えたくだりがあった。以下は、そのときに得たイメージ――
いずれ、船は出航し、川を下って大海へと漕ぎ出す。だが今は、航海にむけて準備の段階(とき)なのだ。それまで、まだ、ずいぶんと長い時間がある。 
(一社)住宅遺産トラスト|http://hhtrust.jp/
建築ジャーナル・山崎さん、当初、編集に携わっていただきました酒井直子さんに感謝と御礼申し上げます。いつも率直なご感想を返信していただき、ありがとうございました。