新連載
だれもが知ってる
建築史のはなし <第1 回>
測る
溝口正人|名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授
  みぞぐち・まさと|1960年三重県生まれ。名古屋大学卒、同大学院修了。清水建設設計本部、名古屋大学助手を経て現職。専門は日本住宅史、漢族・少数民族住居誌。文科省文化財保護審議会第二専門調査会委員、愛知県文化財保護審議委員、重要伝統的建造物群保存地区保存審議委員(妻籠, 奈良井, 足助など)。町並調査(美濃, 醒井,犬山,足助, 有松, 揖斐川など)、近代化遺産調査(秋田, 鳥取, 愛知)、名古屋城本丸御殿・湖西市新居関の復元などに従事。写真はヤオ族の子どもとともに。
 私の専門は漢文の日記を読んでの古代中世貴族住宅の復元。寝殿造の研究者で一貫しているはずですが、地域に根ざした活動が地方大学の責務となっていて本業は開店休業。普段は東海三県の文化財や町並みの保存に関係する仕事が中心で、歴史的な建物を活かしたまちづくりにかかわることで日々を重ねています。行政の方々や設計士のみなさんとの接点が増えた普段の仕事で考えたことを今回から披露させていただくわけですが、ときの流れにあらがうのが歴史屋の存在意義ですから、多少は当たり障りある連載になればと思います。  
建築史に何が可能か
 モノとしての建物にこめられた文化、技術の総体がArchitectureとのことです。手元の辞書で引けばU、つまり不可算名詞と記され、訳語の筆頭は建築術です。明治時代、この抽象的な概念の訳語について議論の対象となったことはご存じと思います。「造家学」ではしっくりきません。「建築(術・学)」で落ち着きましたが、「建築」は誤解を受けかねない用語、建築を対象とする歴史学としての建築史学も、建物の歴史(モノ)を扱う学問なのか、建築により歴史(コト) を語る学問なのかの判断が難しい学問となりました。
 今日、設計実務との間には三途の川が流れていそうな建築史という分野ですが、和洋を問わず建物が古典主義を装っていた時代には建築意匠の根幹を担う実学であり、建物の設計に不可欠の学問であったといえます。
 近代建築が様式と決別をして以後、建築史の置かれた状況は大きく変わりましたが、近代主義が様式を駆逐した後も、ある種のデザインリテラシーを担う一分野ではあり続けたのでしょう。装飾を捨象した先のプロポーションを見据えたかのような“Less is more” “God is in the detail” というミースの言説の前提には、古典主義の影が透けて見えるようにも思われますし、ロースのように装飾を犯罪と同等とする考えも、忌まわしいほどあり余る古典主義の遺産があって生まれたといえます。近代においても、認めるか忌避するかはさておき、デザイン感覚の涵養の上で、建築史的な素養は前提の一部ではあったと考えられます。
 学生の設計作品に「プロポーションがいい」と発言する自身の建築観には、冷ややかであるべきと考えています。私の大学時代の教官は、岸田日出刀の『過去の構成』などに感化されて桂離宮を美しいとするモダニズムの感性を持ち合わせていた世代で、その物差しを教え込まれた側も同じ感性を深層で植え付けられているわけです。同様な感性の作付けがなされている人は本誌の読者にも多いことでしょう。
 しかし床・壁・天井といった空間を限定する装置の解体が進む建築の現状からみて、様式建築から何が学べるのかへの今日的な解答は、なかなか見いだしにくい。コトの奥
義は守・破・離にあるとはいうものの、古典主義から離れてしまえば守るべきものは何であったかは忘却の彼方で、若い建築学徒であればなおさらです。これと呼応するかのように、実学から離脱した建築史学は純粋な歴史学として設計の水面下へ深く潜航することとなりました。実学としての存在価値を失った以上、避けざるを得ない選択だったともいえますが、今となっては存在さえも疑問視される分野といえるのかもしれません。
 学問が霞を食って太平の世を謳歌することが許されない今日、建築教育機関での建築史の存在意義としては、過去から建築の未来への方向性を見いだすためにあると位置づけることにしています。建築の振る舞いを考える上で、過去から未来が見通せるかは議論があるでしょうが、一見役に立たないような事象にも考えるヒントはあるように思います。私の場合、設計から歴史へと生業を変更したなかで、さまざまな建築史の「はかる」現場から考えさせられたことがありました。
 「はかる」…日頃、なにげなくパソコンで打ち込む言葉ですが、測る・量る・計る・図る・諮る・謀る、その意味するところはなかなか奥が深い。この連載も「はかる」ことの諸相から、話題を提供することとします。 
「測る」ということ 
 1996年に今の職場に着任して以来、学生と建物の実測しています。私個人の研究上の興味からではなく、自治体の求めに応じた「公的な」調査です。従来からの協力者がみんな偉くなって、現場に呼び出しにくくなったことが学生を駆り出す個人的かつ最大の理由でした。建築史研究室は数あれども、いまや実測を「こなしている」研究室は全国的に絶滅寸前。自身が県下で最も実測している現状に危機感も感じますが、愚痴をいえばきりがありません。
 教育現場は人育ての一次産業、農業と同じで毎年の繰り返しであり、まとまった調査は暑い夏休みで実施することになります。汗と埃で身体も実測の野帳もドロドロ。壊れそうな(実際にほとんど壊れている場合もある)建物の調査も多く、まさに典型的な3K の現場ですが、現物を前にして建築をリアルに体感できる場でもあります。リアリティー無くして設計はあり得ませんから、リアルな現場には学ぶべきものは多い。ゼネコンに就職するまでは1棟も実測したことがなかった私も宗旨替えをしました。
 ゼミ配属の3年生に「木造住宅の柱の一般的な太さは?」と問いかけると、45㎝とか30㎝とかいった答えが返ってくることがあります。前任の大学でも同様でしたから特に驚きません。なんて非常識な、と誹る方が非常識なのです。RCとスチールしか学んでいないのだし、なにより構造形式はどうであれ、ほとんどの学生が柱の見えない家に住んだことしかないわけですから。
 
洋風建築の実測では、装飾要素の大きさを目に近いところで実感することになります
 実測現場で何畳間といわれても、畳がある家に住んだことがないのでピンときません。一番注意するのは2階の床を歩くとき。大引や根太を想定して歩こうと指導します。学生は足元がたわむヤバい感覚に疎いのですが、木登りしたことがないからしかたない。少なくとも日本では平時にRC造の建物は崩れません。ましてや敷居を踏むのは親父の頭を踏みつけることと叱られたこともない。敷居は外れやすく痛みやすいのだからと行儀作法の指導となります。
 社会人をやめて学生に舞い戻った頃、建築史のレジェンドである浅野清先生の古建築見学会に参加したことがあります。今から考えれば贅沢な時間です。いたずらに写真ばかり撮る私たちに、浅野先生は「写真を撮ると、分かった気になりモノをみることが疎かになる」と、たしなめられました。確かに、モノをみて理解することが目的なのであり、写真を撮ることに懸命でモノをみないのは本末転倒です。
 実測は図面化を前提とした作業です。建物というモノを見つめて野帳という図に起こす必要があります。図化とは、あいまいな記憶を記録として定着させる作業です。自分が図化した現前の建物を図面に定着するため、ひとつひとつの寸法が気になり出します。特に文化財建造物において図面はモノの肖像画ですから、絵が持つ意味は大きく、寸法の持つ意味は疎かにできません。設計では寸法が分からなければ究極では分一で形を決めることになるのですから、「測る」という行為、そして結果としての寸法の持つ意味を知る意義は大きい。
 作図方法は、手書きからパソコンへと時代に合わせて変化し、個性を見分けることが難しくなりました。デジタル化された社会の一側面です。しかし野帳にせよ、ドローイングにせよ、やはり選んだ線の太さや装飾の描き込み、省略に描き手の意欲や感性を垣間見ることができます。そして描き手は図化によって、普段は気づかないモノのあり様を発見し、再認識することになります。
伝統木造の場合、小屋組みは千差万別。何故そのように組んでいるのか、現代的な合理性だけでは読み解けません
真夏の昼の現実。サウナのような小屋裏でモノに向き合った証しとしての野帳です