フランスと日本の関係 ~対外文化政策のいま~ <第1 回>
「パリ日本館/バロン薩摩の夢……」

松本茂章|公立大学法人 静岡文化芸術大学文化政策学部教授
  まつもと・しげあき
早稲田大学教育学部卒、同志社大学大学院総合政策科学研究科博士課程(後期課程)修了。博士(政策科学)。
読売新聞記者、支局長を経て2006年4月から県立高知女子大学教授(現、高知県立大学)。
2011年4月から現職。
日本文化政策学会理事、日本アートマネジメント学会関西部会長、NPO法人世界劇場会議名古屋理事。
単著に『芸術創造拠点と自治体文化政策 京都芸術センターの試み』(2006)、『官民協働の文化政策 人材・資金・場』(2011)、『日本の文化施設を歩く 官民協働のまちづくり』(2015)(いずれも水曜社)
 筆者は、わが国における自治体文化政策の研究を専門としている。一方で、日本の対外文化政策に関心を持ち、ときおり渡仏調査に出向く。パリは「芸術の都」であるうえ、UNESCO(国連教育科学文化機関)本部が置かれ、各国の対外文化機関が多数集まる「文化外交の十字路」であるからだ。今回、本誌に6回の連載を執筆する機会をいただいたので、パリの日本系文化施設や団体を中心に紹介してみたい。第1回はパリ日本館である。
パリ国際大学都市とは
 パリ日本館(Maison du Japon)は通称名で、正式には「パリ国際大学都市日本館-薩摩財団」という。国際大学都市は広さ34ヘクタール。パリ最南端の14区に位置し路面電車が走るジュルダン大通りに面する。林や芝生の敷地には各国や仏国の留学生寮40が立ち並び、大学などで学ぶ1万人余りの学生や研究者が暮らす。寮の土地・建物は仏国の所有で、運営には2種類ある。国立財団法人「国際大学都市」が直営する直轄館と、各国政府などが建設した各国館である。大半の各国館は、それぞれの公益財団法人が自主的に運営している。
 高速郊外鉄道RERの最寄り駅で降りて地上に上がれば、敷地が目前に広がる。劇場、図書館、レストラン、スポーツ施設が備わり、1つの「まち」になっている。国際交流や親善の狙いから、各館にあるサロンでは、音楽会などの文化事業が繰り広げられている。
 大学都市を提唱したのは、第一次世界大戦後に文部大臣を務めたアンドレ・オノラ(1868~1950)である。1925年、最初の建物(ドゥーチェ・ドゥ・ラ・ムルトゥ館)が竣工したあと、各国の財界人らに寄付を呼びかけ、次々と留学生寮が建てられた。今も正門近くに銅像が立つオノラは理想家だった。将来各国の指導者になるであろう留学生たちが出会い、交流して相互理解を深めれば、世界平和の基礎に貢献すると訴えた。
 筆者が初めて訪れたのは2008年3月。当時、仏留学中の愚息が同大通りを挟んで向かいに位置するパリ高等師範学校の寮に暮らしていた縁で、同都市を視察した。館長が「貴重な文化資源として後世に伝えていきたい。日仏交流に貢献した日本館の存在意義を強く訴える」と話した言葉が印象に残り、2013~14年に再訪して詳しい聞き取り調査を行った。
 
大学都市の入り口正面に建つ国際館。米財閥ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの寄付で、1936年に開館した。劇場、図書館、学生食堂などが備わっている
城郭ふうの日本館
 学寮の1つであるパリ日本館は、大学都市の正門から入って左手に進み、5分ほど歩くと見えてくる。鉄筋7階建て地下1階。日本の城郭のような外観に黒い切妻屋根なので、すぐ分かる。建物は、フランス人建築家ピエール・サルドゥー(1873~1952)が設計した。19世紀の劇作家ヴィクトリアン・サルドゥーの長男で、多くの公共建築を手がけた。
 部屋数は70室。2013年10月1日時点で日本人留学生(大学院後期課程)22人、非日本国籍留学生24人、日本人研究者(博士研究員、大学教員)16人、日本人一時滞在者7人が暮らしていた。かつては仏文学を研究する大学院生が多くを占め、2007年当時は日本人居住者42人のうち、学生が38人だったので、学生が随分と減ったことになる。近年、奨学金や助成金を獲得して仏国の高等教育機関や研究所に赴任する理科系の博士研究員(ポスドク)が急増しているからだ。仏国は文化系だけでなく、理科系の研究も盛んなのである。
 気がかりなのは日本館の老朽化だ。室内あるいは共同スペースの台所の壁には亀裂が走っていた。これまで2度、大規模改修をしたが、そろそろ次の大規模改修時期が迫る。 
切妻屋根の城郭風デザインで知られる日本館の外観
バロン薩摩が寄付をした
 資産家の薩摩治郎八(愛称・バロン薩摩)(1901~1976)が、建設資金350万フラン(当時の金額)や財団の設立基金35万フランの寄付をした。日本人芸術家のパトロンだったことでも知られる。建設費とは別に30万フランの費用を出して藤田に絵画制作を依頼。大作「欧人日本へ到来の図」「馬の図」2点が今も1階サロン(大広間)や玄関廊下に飾られている。1929年5月10日の落成式には大統領ガストン・ドゥメルグ、首相ポワンカレらの要人が出席した。同年の初代入居者に中谷宇吉郎、岡潔、前川國男らの名前がある。ル・コルビュジエ事務所で修業した前川のほか開館初期には欧州視察の今和次郎、逓信省の営繕技師山田守らの建築家も滞在したというから、日本建築史にとっても重要な場所である。
 戦後の薩摩は財産を使い果たして帰国、東京で暮らした。ダンサーだった徳島出身の女性と知り合い結婚。阿波踊りを見に出かけた1959年夏に脳出血で倒れた。回復後も「徳島はマルセイユのようだ」と気に入って徳島暮らし続け、南国の地に骨を埋めた。筆者は2008年5月、日本映画『眉山』で知られる眉山麓の寺院を訪ねて治郎八のお墓を探し、手を合わせた。雨にけむる日だった。波乱万丈の人生と世界平和を願ったバロン薩摩の夢に思いをはせた。
日本館地上階のサロン。舞台も設けられており、音楽会や講演会が行われる。舞台奥には藤田嗣治の大作が掲げられている
(写真はいずれも筆者撮影)
文化資源として存続するために
 なぜパリ日本館に関心を持ったのか? 同館の物語が民間主導から始まり、現在でも官と民の協働で運営されているからだ。建設予算が民間から支出された後、開館当初、外務省は予算がなく費用負担しなかった。1934年から年間1万円(当時)の補助金を出した。戦後、在仏日本大使が議長を務めた任意団体の管理委員会が建物を管理。2011年から仏国の公益財団法人となり管理理事会(理事長=日本大
使)が建物管理して寮を運営している。
 資金調達の方法は3つある。1つに日本国政府からの補助金、2つに入居者が負担する室料収入、3つにはサロン使用料収入などである。国の補助金は2002年度に11万8167ユーロあったものの、2012年度は9万8000ユーロに減った。減少傾向にある。収入総額に占める割合は20 %台を維持していたものの、2011年度は18 %台、2012年度は17 %台に下がった。
 2007年度に大幅な赤字を出したので増収策を迫られた。28代館長(2008年4月から2年)の西永良成(東京外国語大学名誉教授)、29代館長(2010年4月から2年)の寺尾仁(新潟大学工学部准教授・都市法学)、30代館長(2012年4月から2年)の佐野泰雄(一橋大学教授・仏文学)の3代で財政再建に乗り出し、室料の値上げを実施、空室を埋める懸命な入居調整を図った。年間室料は2002年度の30万5477ユーロから2012年度には43万4756ユーロへ急上昇して増収を実現した。音楽会や講演会を開催できる地上階サロン(大広間)も1日6時間350ユーロの有料で貸し出しを始め、年間2万ユーロ余りを稼いだ。
 寺尾仁(1957年生まれ)は「名誉職ではなく、ホテルの支配人みたいな仕事」と苦笑しながら老朽化した建物の改修に奔走した。「在任中は設備のトラブルに悩まされ続けた。排水管が体毛で詰まり特殊な方法で取り除いた。屋根の煙突の金網が破れてハトが入り込んだので、大使館に交渉して特別補助金を獲得して修理できた」と振り返る。都市法学が専門の寺尾は工学部に所属して建物の構造や建設契約に詳しく、電気契約を自ら行った。
 寺尾在任中の2011年3月11日、東日本大震災が発生。館長と在寮生が連携して急きょ地上階サロンで震災支援のジャズコンサートを開催し、大学都市に暮らす学生らから義援金を集めた。東北大学から渡仏していた同館若手研究者がパソコンを用いて最新の被災地情報を参加者に伝えた。こうした文化事業を通じた国際親善も同都市の狙いの1つである。
 今後、どうすれば歴史的な建築物を保存し、存続できるのか? 民主導という経緯から、日本政府の公的資金だけに頼ることは難しそうだ。民間の理解と寄付が求められる。これまで果たしてきた人材育成機能、あるいは国際交流機能など、パリ日本館の意義と業績をもっと丁寧に語る必要があると思う。仏研究の関係者にとどまらず、より広く多くの人々に知っていただきたい。だからこそ、同館の物語を建築の専門誌で紹介しようと考えた。(敬称略)