必ず起きる地震と災害に備えよう
番外編
戦後70年、平和とは何か

 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師 
 1945(昭和20)年8 月15 日の終戦から70 年。「あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻さびしげにいふ」。歌人、土岐善麿(ときぜんまろ)が終戦後に詠んだ歌です。夫が妻にずばりと本質を言い当てられているような情景がよく詠まれていて傑作といわれている有名な歌です。太平洋戦争が始まったとき、ある程度知識のある人たちには日米の国力の差からして無茶なことを始めたことはわかったはずです。それにもかかわらず多くの人は支持した。それにはどういう理由があったのでしょうか、きちんと確かめ検証しておくことが重要だと思います。
 名古屋市都市センター(金山南ビル:名古屋ボストン美術館)11 階まちづくり広場(企画展示コーナー)で毎年、平和について学び考える収蔵資料展があります。そこには250 キロ爆弾が展示されます。1997 年2 月20 日南警察署の新庁舎工事現場で発見された爆弾で、信管と火薬は取り除かれています。焼夷弾をはじめとして各種の爆弾が本土空襲で使われ、軍需工場では勤労学徒など多くの犠牲者を出しました。特攻機は250 キロ爆弾1個を吊り下げ鹿児島県知覧基地から出撃して帰らぬ命となりました。B29 爆撃機は大量に爆弾を投下。発見された1個の不発弾から規模の違いを考えさせられます。(※ 図1)(※ 写真1)


図1|B29 
B29 爆撃機はボーイング
 名古屋市見晴台考古資料館にはB29 の垂直尾翼が展示されています。小高い丘には日本一の生産を誇る名古屋の航空機製造工場をアメリカ軍の爆撃から守るため、見晴台をはじめ各要所に高射砲陣地が構築されました。当時、瑞穂運動場付近にB29 が墜落したことが分かっています。B29 爆撃機の尾翼の一部と推測されるジュラルミン破片が出土したのです。そこには「ボーイング」と記載されています。笠寺陣地北東端にあった「いすず神社」前に、戦利品としてB29 のプロペラも展示してあったと伝えられていますが、プロペラは出土していません。(※ 写真2)
 当初、零式戦闘機には痛い目にあったそうです。日本の戦闘機に対抗するためアメリカ軍は1944 年6 月、空気の薄い1万メートルの高高度でも高出力を維持できるエンジンや与圧室(コクーン:繭)を装備したB29 爆撃機で日本本土を初めて空襲。11 月東京初空襲。中島飛行機武蔵製作所攻撃、以降から空襲を本格化させました。もともと、マリアナ諸島のテニアン島の海軍航空基地の飛行場は全国の刑務所から囚人を集めて建設にあたった飛行場だそうで、アメリカ軍はこのテニアン、サイパン、グアムのマリアナ3島に日本を襲う「超空の要塞」B29 爆撃機の出撃基地を建設しました。終戦までに延べ3 万4,790 機が353回出撃しました。日本空襲の犠牲者(原爆の犠牲者は除く)は30 万人から50 万人といわれています。テニアン島から硫黄島を結ぶ爆撃ルートが構築されそのルートの先が名古屋となり、東、西と旋回して、日本の各都市への爆撃をしたそうです。(※ 図2)
 軍需工場の多い愛知県と静岡県浜松市などでは激しい空襲を受けています。最近でも浜松市で不発弾が出て新幹線がとまるのはそのためです。
 1945 年3 月10 日B29 爆撃機300 機以上が東京都江東区、台東区、墨田区など木造家屋が密集する地域を対象に行った無差別爆撃。焼夷弾を対象地域の周囲に投下し、住民の退路をふさいだ後、内側を爆撃したため犠牲者は10 万人以上とされます。関東大震災で10 万人以上の犠牲
者が出ている場所でもあります。
 名古屋空襲はB29 爆撃機約3,000 機、投下された焼夷弾、爆弾1 万4,000 トン、死者7,800 人、負傷者1 万人、被害家屋13 万5,000 戸(1944 年12 月から終戦まで)といわれています。名古屋城が焼失したのも爆撃によるものです。名古屋の街も焼かれました。延焼を防止するため100 メートル道路がつくられ、立ち退きをさせられた人々に与えられたのが、南区のゼロメートルの土地で、伊勢湾台風により被災者になられた方々には、ほんとうに慰めの言葉もありません。
 日本の戦闘機に対抗するため開発されたB29 爆撃機の高高度でも高出力エンジンと酸素マスクをつけなくてもいい与圧室は現在の旅客機に使用されていて、今では海外旅行などで抵抗もなく乗っているのは不思議な感じです。ボーイング747、ジャンボ機や政府専用機に決まったボーイング777 やボーイング787、ボーイング次世代大型旅客機「777X」は三菱重工業、川崎重工業、富士重工業など5 社が機体の生産に参画し生産体制の構築を進めています。
 日本の国産大型ロケットは三菱重工業、小型ジェツト旅客機MRJ(三菱リージョナルジェット)などものつくりの先端であることは間違いありません。
 1944 年12 月7 日東南海地震が起きました。名古屋市港区大江の零式戦闘機を生産していた三菱重工業の工場は液状化により大被害を受け、また半田市の中島飛行機(富士重工業)の工場も倒壊して多くの犠牲者を出しました。その後、爆撃も受けました。(※ 図3)(※ 写真3)その1 カ月後の1945 年1 月13 日に三河地震が起きました。疎開していた児童など多くの犠牲者が出ました。(※ 写真4)報道管制をされたため資料が少ない。1945(昭和20)年8 月15 日が終戦です。
 戦後70 年、平和ってなんだろう。        
 
 写真1|250キロ爆弾(名古屋市都市センター:蔵) 
写真2|B29写真1|250キロ爆弾(名古屋市都市センター:蔵) の尾翼の一部分(名古屋市見晴台考古資料館:蔵)   
 
図2|テニアン島からのアメリカ軍の爆撃ルート 
図3|半田市の中島飛行機の工場と被爆位置(半田市誌) 写真3|アメリカ軍が撮影した爆撃位置(左図の右上部分)  写真4|三河地震の隆起跡(蒲郡市金平町:金平郵便局跡地)嫁いだ年に平らだった土地がこうなった。生き証人のおばあちゃんと一緒に写真を撮る。1.5m隆起した場所