保存情報 第163回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 水路の交差点  浅井裕雄|裕建築計画
南郊運河と中川交差点 荒子川公園 荒子運河終点
■発掘者コメント 
 名古屋市では大正13(1924)年に「運河網計画」というものがありました。中川運河は大正15(1926)年に着工、昭和5(1930)年に完成します。その中川運河や堀川を東西に流す支線で庄内川へ結び、名古屋を縦横無尽に水路でつなぐ計画でした。しかし、輸送手段の変化などで中川運河の完成後、支線の計画は途中で廃止されてしまいました。
 Googleマップで名古屋を見てみると、中川運河を横切る水路が幾つか見えます。不思議な感じですが、調べてみると、これが当時の支線跡です。支線は横堀と呼ばれ、小碓・南郊運河、荒子川・港北運河と名前がついていて、水運の減少で一部埋め立てられ緑地となっていますが、合計で2.1kmほど残っています。
 中川運河と横堀は信号のない大きな交差点のようで、完成していたら多くの船舶が注意深く往来していたのかも。荒子川運河のさらに南には名古屋港から堀川へ差し掛かったところに東西に繋がるように支線があり、臨港鉄道の可動橋がある「名古屋港跳上橋」は登録有形文化財に指定されています。現在、橋は跳ね上がったまま保存されています。
 中川運河周辺は、工業都市を目指した、名古屋の産業遺構です。都市の表層は時代を反映しながら生まれ変わります。しかし、都市の骨格は長い時間を掛けて築かれ、使われ、取り残されていきます。本来の意図はなくなってしまいますが、変わらない景色として眺めていたいものです。産業遺構のモノたちの新たな価値を見つけ、生まれ変わらせる必要性が見えてきました。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 横須賀の町割り・町並み  野々川光昭|オウ環境設計事務所
 
明治26年建築の酒屋 名槌屋 明治7年建築の商家 当時の町割りの姿を残す路
■発掘者コメント 
 横須賀地区は1666年二代尾張藩藩主徳川光友が横須賀御殿を造営し、この地を訪れたことから横須賀町は町方と称され、これまでの漁村から、城下町としての扱いを受け商業の町として繁栄した。当時は海岸線が近く「臨江亭」と呼ばれていたこの御殿は、光友の死後取り壊されたが、1783年に知多西浦73カ村の行政の中心となる代官所が跡地に建てられた。以後、知多の政治・経済・文化の中心地となり海運でも繁栄し、ちょうどこのころ愛宕神社の例祭で知られる「横須賀まつり」が始まったとされ、現在も変わらずに継承されている。そして明治以降の近代化とともに銀行・商店・駅などが開設され商業地区として発展した。
 この地区の保存の特徴は、繁栄の時代を今に伝える商店や民家などの古い建物のほか、江戸時代の町割りがそのまま残っていることが挙げられる。愛宕神社から南へ向かう道と、その道から東西方向に道幅一間ほどの狭い路地が幾重も繋がっており、その多くの路地が現代の生活の中でも残り利用されている。しかし建築基準法において道路中心から2mの後退を求めていることから、新しい建物が建ち並ぶ通りでは路地景観が壊されつつあるのが実情である。古くからの路地部分の明示や後退した部分のつくり方の検討、京都の道路後退緩和事例などを参考に、防災や緊急車両などに対処しながら歴史的街路の保存を沿道の住民と一緒に考えていく必要性を感じる。
所在地:愛知県東海市横須賀町三ノ割 他
年  代:江戸時代~昭和初期
アクセス:名鉄「尾張横須賀」駅、徒歩5分
参考資料:東海市・横須賀文化の香るまちづくり基本構想

江戸時代の町割りが残る地域
(太線部は筆者書き込み)