建築家は、リージョンをもつ。
第3回
都市型アートイベント「sebone(せぼね)」

黒野有一郎|一級建築士事務所 建築クロノ
  くろの・ゆういちろう|1967年、愛知県豊橋市生まれ。
武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。
1993年より野沢正光建築工房。「いわむらかずお絵本の丘美術館」「長池ネイチャーセンター」などを担当。
2003年、同事務所を退所し豊橋へ帰郷。
2004年、一級建築士事務所 建築クロノを設立。
2014年より豊橋技術科学大学建築・都市システム学系非常勤講師。
現在、「大豊協同組合」代表理事、アートイベント『sebone』実行委員長、駅前デザイン会議常務理事・事務局などを務める
 建築家は、地域へどのようにアプローチして、地域とどのようにかかわっていけるのか?
 地方都市・愛知県豊橋市の「まちなか」=駅前エリアと「水上ビル」における10年間の活動を、一例として紹介する。今回は、「水上ビル」を舞台として、現在まで続くアートイベントとそれを興した人たちのことについて書こうと思う。
西武百貨店の撤退
 2003(平成15年)8月10日をもって、豊橋駅前の「西武百貨店」が閉店となった。1932(昭和7年)開業の「丸物百貨店」に端を発し、1970年代に「豊橋西武」と改称されて30余年。「西武百貨店」は、前回紹介した水上ビル(大豊ビル)へと移った駅の跡地にできた「名豊」、1970年代に駅前大通りに建った「豊橋丸栄(現:ほの国百貨店)」と並んで、昭和の時代、豊橋駅前を代表する商業ビルであった。
 バブル経済の崩壊後、いずれの百貨店も往時の勢いは薄れたが、ことさら「西武撤退」のニュースは、当時東京に住み、たまにしか帰省しなかった僕にとっても大きなショックであったことから、地元の衝撃は大変なものであったろうと想像する。「西武がある」というのが、地方都市における一種のステイタスだと感じていた節もあり、地元の友人や兄弟からは、「これで(まちなかは)本当に終わった」という声が多く聞かれた。しかし、多くの豊橋市民が「まちなかの衰退」を嘆く中、そう思わない人たちもいた。
まちづくりへの目線
 「ちゃんと終わらない限り、はじまらない」“ちゃんと終わった”西武の跡で“新しいことがはじまる”という漠然とした期待をもって、このエリアに目を向けてくれていた人たちがいたことが、その後に続く活動の礎となっていると、今は感謝している。
 僕と同じ歳で、市会議員をしている岡本泰さんがその一人である。「sebone」のスタート時、僕はまだ東京にいて、設計事務所を辞め、帰郷の準備をしている頃だったため、その成り立ちの詳細については知らない。この連載にあたって、改めてその経緯を聞いた。
 2000年代、「中心市街地の衰退」は顕著になり、“シャッター街”などと揶揄されて、全国的にそのテコ入れ策が論じられていた頃、豊橋においても「西武撤退」はその危機感、不安感に拍車をかける出来事であった。市議の立場から「市役所から見るまちなか」として、いつまでも「駅前がにぎやかでなければ」という意見に違和感があったという。豊橋のような30 ~40万人都市のまちなかのあり方について、行政は、なんら策を持てないでいると感じていた。一方、商工会議所に所属する立場から「商工経済界から見るまちなか」も、「お店でいかにモノが売れるか」という、まちづくりの発想にも限界を感じた。
 そんな折に行った商工会議所青年部の「中心市街地活性化」事業企画でのまちなかアンケートで、まちなかでの行動や過ごし方について調べて気づいたのは、「まちなかに来る人が、駅周辺のほんの少しのエリアでしか行動していないこと」であった。豊橋市が定める「中心市街地」は、はるかに広域で、“もっとコンパクトに”“もっと集中しましょう”と提言したが、行政も商工会議所もイザとなると、「そこだけ優先することはできない」となった。このとき、このような思考・組織・構造の中からは新しいことはできない、と強く感じ、既存の団体によらないまちづくりができないだろうか、という思いが、「sebone」へと繋がる。  
「マイアミ」の奇跡
 最初にしたことは、メンバー集めであった。商工会青年部の後輩で求人誌などを手掛ける鈴木恒安さん(=人を動かし、資金集めができる人)、知人の美術家・社本善幸さん(=アーティスト)、まちなかアンケートをサポートした豊橋技術科学大学の都市計画系ゼミの学生・菊池晃生くん・木下博貴くん(=建築や都市計画など技術的なことが分かる人)と、まちなかで育ち、アートイベントなどのキュレーション経験もある松井香奈枝さんの5人。松井さんとの出会いも、前述のアンケートで、まちなかへの提案的なコメントがびっしり書き込まれていたことが目に留って、連絡を取ったことがきっかけだった。
 2003年、季節は春(定かではない)の夕刻、「市民センター」のあるビルの前で待ち合わせ、「マイアミ」という飲食店で、はじめましての5人と、岡本さんが顔を揃える。各自まちなかへの熱い思いを語り合い、西武ビルを使って何かをしよう、とか、跡地への新しい希望など、話題は「駅南エリア」を中心に展開し、「水上ビルって、おもしろいよね」という話にもなったという。曰く「まちなかを俯瞰して見たときに余白があると感じた」という駅前大通りの南側のエリア「駅南(えきなん)」について、豊橋一の繁華街の広小路通りに比べ、イベントや行政からの支援や補助などが投入されていないものの、今後さまざまな開発の動きが予見されるエリアとして注目をしたという。水路や鉄道などの交差するこのエリアを、新しく人の流れをつくる場所に変えられる、と思ったそうだ。この1年後の夏7月、最初のアートイベントが開催される。「sebone(せぼね)」とは、水上ビルを「まちなかの背骨」と見立てて、「背骨がしっかりしてれば、しゃんと立てる」という、まちなかへのメッセージである。
「sebone」にかかわったスタッフたち
 
水上ビルの前でまちなかでのライブペインティング(2014年)    豊橋市のキャラクターも参加(2014年)
   
 水上ビル(中央)を、はしご車から見下ろす 水上ビル絵本化計画」:水上ビルの10面の妻壁に絵本を飾るという企画。初回は、社本善幸さん作「TUNA SAND-WICH」。現在は、「水上ビル壁面アート・トリエンナーレ」として3年ごとに作品募集する企画になっている 
アートによるまちづくり 
 昨年10月から今年2月まで愛知県の「現代アートを活かした地域の魅力づくり」協働ロードマップ策定事業にsebone実行委員会の代表として参加した。ここでの議論は有意義で、多くのことに気づく機会となった。今では多くの地域でアートイベントが行われているが、アートによるまちづくり、アートがまちに出ていくこと自体が、この十数年で興ってきたことであり、まだまださまざまな模索の段階であること、その人材や場所や仕組みも十分でないことなどが議論され、「sebone」での経験や問題点が、改めて追認された。
 「なぜ、アートだったのか?」と岡本さんに問うと、「まちづくり」を考えたとき、「まちを変える⇒人の考えを変える」、そのためには、今までと違う発想からアプローチしなければ――と優等生的回答の後、役人も商工会系の連中も“わからん”分野で勝負しないと――と本音が漏れた。
 僕は、まちなか衰退の理由を「公(おおやけ)の毀損」だと考える。公共の場所を「自分のもののように思う気持ち」が薄れている。彼らが始めたこのアートによるまちづくりの取り組みに賛同できたのは、アートがまちにできることのひとつが、「その場所への気づき」であると思えたからである。
 「いつもの場所に今日はアート(作品)があることで、その場所がいつもと違って感じる」。これは、「その場所」が、実は「自分の(大切な)ものであること」に気づくことなのではないかと思う。 
 
都市型アートイベント「sebone」ホームページ http://www.seboneart.com/  2004年、第1回「sebone」のチラシ