建築家は、リージョンをもつ。
第2回
「水上ビル」のはじまり

黒野有一郎|一級建築士事務所 建築クロノ
  くろの・ゆういちろう|1967年、愛知県豊橋市生まれ。
武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。
1993年より野沢正光建築工房。「いわむらかずお絵本の丘美術館」「長池ネイチャーセンター」などを担当。
2003年、同事務所を退所し豊橋へ帰郷。
2004年、一級建築士事務所 建築クロノを設立。
2014年より豊橋技術科学大学建築・都市システム学系非常勤講師。
現在、「大豊協同組合」代表理事、アートイベント『sebone』実行委員長、駅前デザイン会議常務理事・事務局などを務める
 建築家は、地域へどのようにアプローチして、地域とどのようにかかわっていけるのか?
 地方都市・豊橋市(愛知県)の「まちなか」における取り組みを10年間の活動を交えて紹介する。
 今回は、最初の「水上ビル」である「大豊(だいほう)ビル」の成り立ちについて触れたいと思う。
「だいほう」前夜
 「だいほう」には、「水上ビル」以前に15 年ほどの前史がある。歴史は、戦後の“闇市”にさかのぼる。昭和20年(1945年)、終戦間際の6月19日の夜半から翌20日の未明にかけての「豊橋空襲」により、市中心部はほとんど焼け野原となった。終戦を迎え、豊橋においても駅付近の通りには仮店舗や露天市場を中心とした“闇市”が出現する。
 全国の都道府県は、闇価格の高騰や市場の混乱など、無法地帯化を憂慮し、条例採択によって、闇市の取り締まりや組織化を推進することになる。1年後の昭和21年暮れには、「豊橋露天商組合」が成立し、秩序の回復や駅前の美観整備のために、闇市を駅前から離れた場所へと移転させる。移転は順調に進み、「青空市場」「明朗市場」など名称を一新したが、実態に大きな変化はなかったようである。
 その後、豊橋の戦後復興も軌道に乗り、昭和23年(1948年)「豊橋市民市場協同組合」が創立、その初代理事長となったのが、山本岩次郎氏である。この人物こそが、「だいほう」のはじまりをつくるキーパーソンである。
   
 組合員の団結を導いた山本岩次郎氏
(「オール生活8月号」(1965年、㈱実業之日本社)の記事より)
「だいほうマーケット」の様子(昭和20年代) 
「だいほう」のはじまり
 ここに重要な2つの記事がある。ひとつは、㈱実業之日本社発行の「オール生活」という雑誌(8月号)の「共同店舗ビル街・豊橋だいほうはなぜ成功したか」という特集記事、もうひとつは、東愛知新聞のコラム「人がいて話題がある」渡辺登喜雄編集局長(当時)執筆のだいほう商店街理事長・山本岩次郎さんへのインタビュー記事である。
 これらは、山本岩次郎氏の子息にして、昨年まで理事長であった山本一成氏のお宅から発見されたもので、「大豊ビル」出生秘話とも言える事柄が綴られており、その創立当時を知るのに大変参考になった。
 記事によると、「豊橋市民市場協同組合」の創立に尽力した岩次郎氏は、「キチンと自分の土地と店を手に入れなければいけない」と、組合に参加した150名の組合員に200円の日掛貯金を課した。血判をついて団結を誓った仲間も一人、また一人と脱落して、昭和24年(1949年)には半数近くなったが、残った同志と協力し、銀行借り入れを加算した2千万円余で、駅前通りの小学校跡地700坪を購入する。
 翌昭和25年、“大きな豊橋をめざして”という意味を込めて、「大豊」と命名された58 店舗からなる「大豊商店街」「だいほうマーケット」が誕生する。
   
駅前大通りから見た「だいほうマーケット」(昭和30年代頃)  
「大豊ビル」の誕生 
 「だいほうマーケット」の創立から5年後の昭和31年(1956年)、マーケットに隣接する旧「狭間(はざま)小学校」から残された市営プールのスタンド完工式でのエピソードが記事にある。
 豊橋の実業家である神野三郎氏との会話――、「山本さん、早く立派なビルを建てるんだな。あんたが建てようと腰を決めれば、わしは、あんたのことだったら、どんな応援でもするぜ」と激励されたと往時の記憶が綴られている。戦後10年余、徐々に市街化も進み、駅前大通りという一等地を占める木造雑居のマーケットは、まちづくりにおいて、防災(火災)や美観(景観)といった観点から問題視されるようになっていた。昭和30年代中頃になると、「防災建築街区造成法」の適用で、マーケット移転問題は具体化するが、住民の反対や、行政の意見がまとまらず、一時は立ち消えになる。それでも、昭和38年(1963年)、河合陸郎豊橋市長(当時)の市の躍進への強い祈念や、議会、商工会などの後押しと、「なんといっても山本さんの人徳ですよ」との当時の商工会頭の言葉にあるように、岩次郎氏の統率力と大豊の団結力は、紆余曲折を経ながらも、移転具体化へと進む力となっていく。
 駅前の「だいほうマーケット」の土地の売却については、当時、豊橋への進出を望む名古屋鉄道が名乗りをあげ、2億4千万円でこれを譲渡、積立てによる4千万円の自己資金と銀行からの借入融資5千万円を合わせて、3億3千万円の総工費をもって、いよいよ「大豊ビル」の建設に向かうことになった。跡地には、昭和43年(1968年)に名鉄により「名豊(めいほう)ビル」という百貨店が建設されることになる。
 一方、「だいほう」の代替の土地があるかというと、戦後20年を経た市街地には、すでに十分な代替地がない。そこで、市内を流れる「牟呂(むろ)用水」の水路上に建てるという苦肉の策に至るわけである。「牟呂用水」というのは、三河湾の干拓農地(新田)への農業用水である。春から秋頃まで通水して、冬場には水がない。新しくできた川というので、「新川」と呼ばれて、お年寄りの昔話では、「泳いだ」とか「魚を捕った」と聞く。
 しかしながら、公共的な水路用地上のビル建設とは前代未聞のこと。「用水路上使用許可には市当局の積極的な尽力があった」とあるが、県知事許可や水利権をもつ機関との折衝は、相当な苦難であったことは想像に難くない。不動産の権利関係や税制上の措置など、ほとんどが「口約束」で、およそ文書に残された形跡もなく、さぞかし“超法規的な”ことが執り行われたに違いないが、今となっては、当時の契約状況の詳細を知るモノも少ない。
 こうして、昭和39年(1964年)の1月17日に着工、12月10日には、新生「大豊商店街」として、開店大セールを敢行したとある。その日から50年を迎えた昨年(2014年)、僕はこの「大豊商店街(大豊協同組合)」の理事長に就くことになった。任期2年。晴れて、12月10日の50歳の誕生の日に、大豊ビルの組合事務所の屋上に守護神として、初代理事長・山本岩次郎氏によって祀られた「報徳二宮神社・大豊分社」において、「誕生祭」を行うことができたことは、先達のご苦労に報いる意味で、嬉しい出来事となった。
 とはいえ、半世紀を経たまちなかの商店街の実情は厳しい。ただ、この不思議な成り立ちの“特異な”また“魅力的な”建築は、ますます多くの人の関心を集めている。「水上ビル」で生まれ育ったモノとして、建築家として、また商店街の理事長として、この建築がどのように活かせるか、またいずれ訪れる「おわり」のときをどのように迎えるべきかを考え始めている。
 次回は、2000年頃、豊橋まちなかの低迷期に、「水上ビル」を“まちの背骨”ととらえ、「sebone(セボネ)」というアートイベントを企画した若モノたちについてご紹介したいと思う。  
「だいほうビル御案内」 商店街紹介のリーフレット
 
現在の大豊ビル。左下に橋の欄干が見える開業した大豊ビル。右の写真からは用水に沿ってカーブしている姿が分かる。道路は未舗装だが、マイカーでの買い物ができるのも魅力だった。アドバルーン広告が懐かしい 大豊ビル屋上にある報徳二宮神社・大豊分社
(写真提供:大豊協同組合)