建築家は、リージョンをもつ。
第1回
「豊橋」と「水上ビル」

黒野有一郎|一級建築士事務所 建築クロノ
  くろの・ゆういちろう|1967年、愛知県豊橋市生まれ。
武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。
1993年より野沢正光建築工房。「いわむらかずお絵本の丘美術館」「長池ネイチャーセンター」などを担当。
2003年、同事務所を退所し豊橋へ帰郷。
2004年、一級建築士事務所 建築クロノを設立。
2014年より豊橋技術科学大学建築・都市システム学系非常勤講師。
現在、「大豊協同組合」代表理事、アートイベント『sebone』実行委員長、駅前デザイン会議常務理事・事務局などを務める
 建築家は、地域へどのようにアプローチして、地域とどのようにかかわっていけるのか? 地方都市・豊橋市(愛知県)の「まちなか」における取り組みを10年間の活動を交えて紹介する。そのはじまりに、僕自身が“ホーム”に選んだ「豊橋」と「水上ビル」について触れておきたい。
豊橋という「まち」
 豊橋市は、「東三河」と呼ばれ、静岡県と湖西市、浜松市と隣接する愛知県東部の「中核都市」である。西に三河湾、南は遠州灘を望み、一級河川「豊川(とよがわ)」が市内を貫く。
 平成26年統計によると、人口=378,530人、1世帯当たり=2.5人、平均年齢=43.4歳、人口増加率マイナス=0.3%、平成24年度の合計特殊出生率=1.56、豊橋駅の1日あたりの平均乗降数=計51,800人、といったあたりが目にとまる。
 かつては、名古屋市(227万人)に次ぐ県下第2位の人口規模(ピーク時=38.5万人)であったが、平成の合併後、豊田市、一宮市に抜かれ、現在は第4位に甘んじている。それでも人口38万人といえば、他県の県庁所在地規模といってよい。
 改めて、豊橋の歴史について、ひも解いてみる。原人化石の発見にはじまり、旧石器時代から縄文・弥生時代の遺跡、古墳などが点在し、5世紀中頃以降、「穂国(ほのくに)」、次いで「三河国(みかわのくに)」と呼ばれた。永正2年(1505年)、牧野古白により「今橋城」築城に際し、「今橋(いまはし)」、その子・信成によって「吉田(よしだ)」と改称され、その後、江戸期には東海道「吉田宿」としておおいに栄えた。どこを切り取っても、この地域には、人がいて、活発な往来があったことがうかがえる。
 明治新政府により「吉田」から「豊橋」となったのは、明治2年(1869年)。市制施行は、愛知県下で名古屋市に次いで2番目の明治39年(1906年)、市制108年となる。
 近世、「玉糸」による製糸業の隆盛から「蚕都(さんと)」と呼ばれ、近代に入り「軍都(ぐんと)」として戦時下の軍需を支えた。昭和20年(1945年)の「豊橋空襲」により焦土と化した市街地は、戦後復興から高度経済成長の波に乗って急速に整備され、以降、昭和から平成、さらに21世紀をむかえ、現在まで至る。
 歴史をあたれば、時代の各々の段階において、時の政治や経済のキーパーソンが“しかるべき一手”を打ってきた。新田開拓や用水の整備しかり、鉄道の敷設、都市計画しかり。そのことが、豊橋の「今」を形づくる礎だったと感じられる。まさに、日本の成長や時代の変化と足並みを揃えて歩んできた地方都市の普遍的な姿がある。
 豊橋という「まち」のもつ最大のポテンシャルは、人の往来によるエネルギーである。昔も今も東西交通の要衝であって、同時に、海(渥美半島)へ、山(奥三河)へと繋がる“ハブ”でもある。
 豊橋のような戦災復興型の都市における中心市街地=「まちなか」は、戦前戦後を通じて、人とモノの流通の主役であった鉄道駅を中心に広がり、戦後復興の混乱と近代的な都市計画の狭間で、この時期、一斉に出来上がり、整備された場所といえる。
 昭和40年代生まれの僕から見える「まちなか」の風景は、高度成長期の活況や熱気を記憶しつつ、その後の自動車社会へのシフト、市街地の郊外へのスプロールといった、「まちなか」の衰退の道程であった。この衰退は、半世紀をかけて緩やかに現在まで続いている。高校卒業までの18年間をこの「まち」で過ごし、進学を機にその後の18年間を東京圏に暮らした。僕が豊橋に戻った2000年代初頭、「まちなか」は、衰退の底にあったように思う。
昭和19年、駅前大通りはまだ整備の途中。路面電車は広小路通りを通る。「豊橋まちなかマップ」より
「水上ビル」とはナニか?
 「水上ビル」――、豊橋市民なら誰もが知っている“まちなかの象徴”といえるこのビルは、高度経済成長期の昭和30年代終盤から40年代初頭にかけ、文字通り、農業用水(「牟呂用水」)を暗渠化し、その水路上に建設された鉄筋コンクリート造3 ~5階建ての「板状建築物群」である。総長さは、水路に沿って蛇行しながら、約800mに及ぶ。
 「水上ビル」というのは愛称であって、実際には豊橋駅から近い順に、西から東へ「豊橋ビル」、「大豊(だいほう)ビル」、「大手(おおて)ビル」と連なる異なる3つのビル群からなる。
 「豊橋ビル」は、養鰻組合を母体とする株式会社が棟ごと所有している。全て賃貸スペースで、1 ~2階が飲食店舗および事務所向け、3 ~5階が住宅となっている。駅に最も近い立地であることから、1 ~2階の飲食店舗部分には店舗の空きはほとんどなく活況を維持しているが、賃貸住宅部分は、間取りも古く、雨漏りや配管設備老朽化の問題などから入居を制限せざるを得ない状況と聞く。
 「大豊ビル」は、商店街組合に属する個人による“タテ割り”所有で、いわば“3階(一部4階)建てのコンクリート長屋“である。1階を店舗とし、2階以上を事務所や住居に充てている。
 東京オリンピック開催、東海道新幹線が開通した昭和39年(1964年)に最初の「水上ビル」として完成した。「豊橋ビル」は、この翌年の完成となる。
 完成時には、59店舗が軒を連ねた。主に半分が小売店、残りが卸問屋で、商店主=居住者であることから、50年を経て徐々に自前の店舗を閉じて、賃貸店舗へと移行する時期に入っており、2 ~3階には依然居住しているものの、1階店舗部分には、空き店舗が目立つようになってきた。
 「大手ビル」は、遅れること3年、昭和42年(1967年)に同様の手法で建設され、1 ~2階に“タテ割”の個人所有の店舗および居住スペース、これに3層(3 ~5階)分を積み増す形で愛知県が県営住宅を付加し、外廊下型のコマ割りで賃貸住宅がつくられた。民間店舗と公共住宅の併用された複合ビルである。 しかし、県は、数年前から耐震を理由に新規の入居者を募っておらず、現在では、ほぼ空き家の状態になっている。1 ~2階の店舗は、飲食店や喫茶店が多く、あとは、菓子などの卸問屋や洋品店など42店舗が連なり、現在も営業店舗はあるものの、駅からの距離が災いし、客足は決して多くはない。
 このように、三者三様の成り立ちによって建設された「水上ビル」もやはり、成長する時代の要請によるものであり、豊橋市による、駅前エリアの近代化、高度化、都市化ビジョンの一環として、推し進められたプロジェクトであった。同時に、混乱の時代に、生き残りを賭けた中小零細商業者の団結力が生んだ奇跡とも思える。
 いずれにせよ、この全国でも他に類を見ない“水路上建築物群”の成り立ちの詳細については、次回連載に委ねたい。僕自身は、この「水上ビル」で生まれ育ち、10年前から再び“「水上ビル」の住人”となることを選んだ。 
   
 昭和33年 の全住宅案内図帳。水上ビル完成前。依然として牟呂用水が流れている  
「水上ビル」空撮。写真右下の駅前から、豊橋ビル、大豊ビル、大手ビルが800mにわたって連なる
 
現在の大豊ビル。左下に橋の欄干が見える 『写真アルバム 豊橋・田原の昭和』より豊橋駅前の絵葉書