必ず起きる地震と災害に備えよう

55年前の小学生の作文展示

 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師
 1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風から55年です。当時被災体験した名古屋市南区の白水小学校の児童がつづった作文が、8月27日から9月28日まで名古屋市博物館で「伊勢湾台風55年 白水小学校の記録から」として展示され、新聞やテレビでも「子は刻んだ 55年前の作文展示」と紹介されました。
 作文が白水小学校の校長室に保管されていることを新聞が報道したことがきっかけで、名古屋市博物館に台風の体験作文記録「台風記」と当時6年生が共同で描いた絵画が共に保存されることになったのです。担当の瀬川貴文学芸員は「体験記録がこれほどまとまってあるのは貴重で、被災児童の心の持ちようを研究する資料になるかもしれない」と話をされていました。
55年前の自分の作文があった
 当時、私は白水小学校6年生でしたが、作文を書いた記憶はありませんでした。熱田区旗屋小学校に仮入学したので、その間に作文を書いたのだろう、だから関係ないなと思っていました。前回、伊勢湾台風について執筆したので(本誌9月号「多くの犠牲者を出した『伊勢湾台風』」)JIA東海支部の事務局に寄って「ARCHITECT」9月号を少しいただき、帰りに博物館に寄りました。吉田初三郎の描いた大正・昭和のパノラマ大紀行を観るためでした。その際、伊勢湾台風の作文があるのか聞いてみました。名前を告げると「4階に上がってください」と言われ、私がかいた「作文」を見せていただきました。
 2ページにも満たない短い作文でした。台風での堤防の破壊と貯木場から流れた流木をなぜ防げなかったのか。“なぜ、なぜ、なぜ”と悔しさがあふれた作文でした。公開の了承をしました。そして、「ARCHITECT」9月号をお渡しして帰りました。 
名古屋テレビから取材の申し込み 
 名古屋市博物館で公開された作文を見たと名古屋テレビから取材の申し込みがありました。
 9月24日、愛知県岡崎市の私の事務所での取材でした。事務所には模型とパネルが展示してあります。資料と、石垣堤防が壊れた絵画(本誌9月号の絵2参照)を使い説明しました。防災建築とは丈夫な地盤に強い構造の建物をつくることですが、浸水地域、液状化の危険、軟弱地盤などの対策が必要なところが多くなっています。対策を適正に行うことは言うまでもありません。また、風速40mを超える暴風はものすごく、飛んでくる瓦などは簡単に防火サイディグを突き抜けるでしょう。2階の開口部も飛来物の防御が必要でしょう。
 小学校6年生の時から、その悔しさを“ずーっと”今まで貫いてきているのは、何か不思議な気がします。自分自身に“きっかけ“を与えてくれた作文だったと今では思います。
 9月25日午後6時15分からの、メーテレ「UP!視点」で放映されました。 
写真1 堤防が破壊され、潮の干満が激しい決壊口:中日新聞社  写真2 ラワン材があった貯木場、流出して空っぽである:中日新聞社 
   
図1 伊勢湾台風による決壊箇所と浸水期間(浸水状況図:中部建設協会より) 図2 伊勢湾台風の帯水地域図。古墳時代の海岸線とほぼ一致する。
   名古屋の浸水地域も古墳時代の海岸線まで浸水した共通点がある
一気に水が上がってきた。
 「30秒から1分ぐらいで一気に、ウワーッと水が上がってきた」。体験者がよく言っている言葉です。避難の途中の人は足が立たなくなって流され亡くなったり、おんぶしていた赤ちゃんが浮き上がり、スポッと抜けたりして亡くした話を聞きました。それは高潮と高波が堤防を越え、一気に堤防を倒して白水小学区に流入したときです。まるで、津波です。それに貯木場の丸太流木が一緒に襲ってきたのです。 
   
 写真3 天白川に建てられていた送電線鉄塔を取り込んで、高潮堤防を築き貯木場を再開した    ( 貯木場の丸太がたくさんある)  写真4 堤防決壊による全壊建物の基礎(半田市康衛町、現在は瑞穂町と町名を変えた)
万里の長城が崩壊した 
 万里の長城と言われ誇っていた堤防は、伊勢湾台風で破壊されました。ここは阿久比川と半田港の間にあり、現在半田市役所、半田市民病院や消防などがある場所です。1695年(元禄8年)山方新田として干拓が始まり、1821年(文政4年)亀州新田、1855年(明治13年着手、15年完成)康衛新田が干拓されました。東洋紡績があり、その建物を中島飛行機半田製作所(富士重工)が軍需工場に転用して、中島艦上偵察機「彩雲」などを製造しました。部品から組み立て整備まで全部そろっていて、滑走路まで整備されました。乙川駅はこのときに、この工場のためにできた駅です。1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震により、多くの学徒動員された女学生が亡くなったところでもあります。康衛新田の住宅は基礎を残して全滅です。
 こんなことってあるの?という、思いがけない出来事がたくさんありました。本当にびっくりしました。予定していた戦争と地震については、またの機会に!  (了)