水生動物との関わり
第3回
「ジュゴン」

古田正美
   ふるた・まさみ
鳥羽水族館 顧問(公益)日本動物園水族館協会会友
昭和23 年(1948 年)生まれ。三重県立大学水産学部卒。
専門は水生動物の飼育と研究。
著書に『いたずらっこのチャチャ』(学研)、『海獣水族館』(共著 東海大学出版会)、スナメリ(共著 月刊海洋2003年8 月号)など。他『スナメリの飼育と繁殖』(海洋と生物2008 年2 月号)、『スナメリ飼育の歴史』(海洋と生物)・『海洋と生物』スナメリと海女さん1966年ごろ (2014年2月,4月号)など多数雑誌に寄稿。 
 人魚伝説で有名?なジュゴンは、沖縄県八重山地方では3500 年ほど前から食用にし、琉球王朝時代には肉が年貢として献上されていました。明治から大正にかけてジュゴンの捕獲が多くなり、1910 年ごろには生息数が減少したと言われています。また、八重山にはザンノイオ(ジュゴン)と結婚した漁夫の民話が人魚伝説になっています。
 沖縄以外のジュゴンの記録は、明治から昭和初期にかけて宮崎県油津、鹿児島県阿久根、そして遠く離れた愛知県知多郡野間村で見られていますが、沖縄や奄美から迷って来た特殊な例です。奄美大島では1960年にジュゴンが1頭捕獲されましたが、その後の発見記録はありません。2002 年には熊本県の定置網に入ったのが沖縄以外の最も新しい例です。
 ジュゴンは1972 年に国の天然記念物に指定されています。
ジュゴン
 ジュゴンは海牛(カイギュウ)目のジュゴン科でマナティーの仲間です。中部太平洋とインド洋の熱帯・亜熱帯域に生息しています。海牛目(SIRENIA)は船乗りたちを惑わすギリシャ神話の妖精(女神)サイレンから付けられています。奄美大島が生息海域の北限と言われていましたが、1960 年以降は沖縄が北限になっています。ジュゴンの体型は水中生活に適していますが、イルカのようなクチバシや背ビレはありません。海草を食べて生活し、寿命はおよそ70 年で、成長すると体長は3m、体重は350kg ほどになります。体毛がまばらに生え、前肢には陸上生活時代の名残で5 本の指骨があります。象の仲間と類縁で5500 万年前に水中生活へ移行したようです。  
ジュゴンの前肢指骨
飼育の歴史
 米国のスタインハルト水族館が1955 年にパラオのジュゴンを飼育したのが最初です。その後、生息地のオーストラリア、インド、インドネシア、ニューカレドニア、タイ、ミヤンマー、フィリピンで飼育されてきました。いずれも短命でインドの10 年10 カ月が最長の飼育記録でした。現在はオーストラリア、シンガポール、インドネシア、日本の4 カ国で5 頭が飼育されているだけです。
 わが国では、大分マリンパレスが1968 年にオーストラリアのジュゴンを、沖縄記念公園水族館が1975 年にインドネシアのジュゴンを、沖縄海中公園が1979 年に地元で保護されたジュゴンを飼育しましたが、1 カ月ほどで死亡しています。
 鳥羽水族館では1977 年5 月に、フィリピンの熱帯魚販売業者が羽田へジュゴンを空輸するという情報が入り、突然に飼育が始まりました。これがメスの「じゅんこ」です。1979 年にはフィリピンからオスの「じゅんいち」が加わり、1980 年にジュゴン飼育専用のマーメードホールが完成し、繁殖のプロジェクトがスタートしました。しかし1985 年6 月の「じゅんこ」の死亡で、繁殖計画が中断してしまいました。
 鳥羽水族館はフィリピン政府と、パラワン島でジュゴン調査と保護の啓発活動を1985 年から1998 年まで行いました。調査・保護活動中の1986 年10 月10 日には台風で母親とはぐれた乳飲み子のジュゴンを保護しました。これが現在飼育中の「セレナ」です。「セレナ」はパラワン島エルニドの「ビッグラグーン」と呼ばれる穏やかな入り江で離乳するまで、6 カ月間人工ミルクで育てられました。 
 
 ビッグラグーンにてセレナを飼育
セレナの輸送
 「セレナ」を保護して2 カ月が過ぎたころ、コラソン・アキノ大統領(当時)の訪日時に、日比友好の証として日本の国民へ「セレナ」を贈る話がフィリピン政府内で持ち上がり、鳥羽水族館へ連絡が入ったときには歓喜したのを記憶しています。しかし、それからが大変で大統領の贈り物であっても、ジュゴンはワシントン条約付属書Ⅰの動物で国際間の商取引が禁止されており、学術研究だけが許可の対象です。したがって、研究項目の作成と研究者との協議で多忙な日々の連続でした。 
 また、外務省からはジュゴンの受け入れ先が民間の鳥羽水族館で大丈夫か?との問い合わせが水産庁へあったそうですが、ジュゴンを飼育する技術は鳥羽が一番であると回答していただきました。さらに、鯨類と海牛類研究の世界的権威である西脇昌治博士(故人)からジュゴンの飼育は鳥羽にしかできないと後押しをしていただきました。
 このようにワシントン条約はクリアーできたのですが、さらなる問題が待ち受けていました。輸送に日本航空の旅客機DC8 のチャーターを運輸省航空局へ願い出たのですが、座席を取り外して客室内に「セレナ」を入れるコンテナを設置するのは安全上の問題で許可ができないとの回答でした。書類提出と打ち合わせのために鳥羽から航空局へ7日間毎日新幹線で通勤?し、「セレナ」を収容する輸送コンテナの強度計算書、図面と写真を提出し、G4 に耐えられる条件で許可をいただきました。
 輸送日は1987 年4 月15 日で、DC8 は羽田からマニラ空港へ「セレナ」を迎えに飛び立ちました。マニラ空港ではフィリピン政府の方々とともに、パラワン島のエルニドからマニラへ「セレナ」を乗せた小型機「ツイン・オッター」を待ち受けてDC8へ載せ替え、駐機場が報道関係者らの喧騒の中、フィリピン政府高官を含むスタッフ総勢26 名と「セレナ」は客室乗務員付きで、名古屋空港へと飛び立ちました。名古屋空港からはトラックで鳥羽水族館へ無事に到着し、フィリピン大統領の贈りもの「セレナ」の輸送大作戦は完了しました。 
 
セレナを輸送。DC8 機内
ケアンズと木曜島
 話は前後しますが、野生動物を飼育するには生息地の調査が大切です。特にジュゴンの場合は何を食べているのか、初歩的なこと判っていませんでした。私と同僚は東京大学医学部の比較解剖学者の神谷俊郎博士(故人)とともに1978 年5 月にオーストラリアの木曜島を訪ね、アボリジニの人々が捕獲しているジュゴンを解剖させていただき、食性の調査を行いました。おかげで、どのような草をどれくらいの量食べるのかが解明できました。
 余談ですが、当時、羽田から木曜島へ行くにはシドニーで国内線に乗り換えケアンズ経由でケープヨーク半島のウエイパで再び飛行機を乗り換えてホーン島空港へ行き、さらにバスと船を乗り継いで四十数時間かかりました。日本からケアンズへ直行便がなかった時代で、ケアンズに日本人は一人しか住んでいませんでした。当時の木曜島については司馬遼太郎の紀行文『木曜島の夜会』を読んでいただければと思います。
 木曜島や金曜島周辺で2 週間ほどの調査後、グレートバリア・リーフのグリーンアイランドに滞在していたときに、ケアンズのオセアナリウムでジュゴンを飼育しているとの情報を得て、急ぎ水上飛行機をチャーターしてケアンズへ戻り、ドーリーと名付けられた乳飲み子のジュゴンと面会できました。このときの経験は、後のジュゴン飼育とセレナの人工保育に役立ちました。
 折しも、新東京国際空港(成田)開港のときで、羽田から出国し、新東京国際空港へ入国でした。これが私の初めての海外遠征で、36 年前の懐かしい思い出です。 
 
アボリジニの人たちがジュゴンを捕獲 V. オーケー館長とミルクをもらうドーリー