必ず起きる地震と災害に備えよう

多くの犠牲者を出した「伊勢湾台風」

 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師
 1959年(昭和34年)9月26日の午前中は晴天でした。しかしこのとき、超大型の台風が日本列島に迫っていました。名古屋でテレビ放送が始まって5年目を迎え、気象庁は日本で初めてテレビの台風進路予想を伝えました。「今日午前9時の台風位置は潮岬の400kmほど南の海上」と警戒を呼びかけ、名古屋気象台も前日の夕方から台風情報を繰り返し発表したそうです。夕方、台風は和歌山県潮岬に上陸。最大風速50mの暴風が吹き荒れ、激しい雨が降り続きました。その時刻は満潮と重なりました。広い範囲で停電が発生してからの情報はまったくありませんでした。名古屋市が避難命令を出すことはありませんでした。 
伊勢湾台風が来た
 伊勢湾台風により伊勢湾沿岸の町は壊滅的な被害を受けました。高さ5mもの高潮(図1、図2 N.P+5.31=T.P+3.898)が堤防を破壊し、水が町を飲み込んだのです。想像を絶する出来事でした。死者・行方不明者5,098人、台風史上最多。最も多くの犠牲者を出したのが名古屋市南区白水小学区です。愛知県で3,260人のうち名古屋市で1,939人、そのうち南区で1,471人、そのうち白水小学区(柴田分校、千鳥分校含む)だけで926人もの犠牲者が出て、当時この学校に通っていた142人もの児童が亡くなりました。小学6年生だった私は、できたばかりの柴田分校の近くに住んでいましたが、6年生は本校に通え、ということで白水小学校に通っていました。同級生や知人、友人の多くを亡くしました。
 なぜこれほど多くの人が犠牲になったのでしょうか。白水小学区をはじめ南区は笠寺、星崎から西(東海道線より西)の前浜は海でした。星崎塩田は尾張名所図絵(絵1)に描かれています。立ちあがるのは塩焼き小屋での釜で煮詰める蒸気です。今も元塩町など地名が残されています。この塩は良質で、塩付街道から足助を経由して信州にも運ばれたそうです。やがては西尾市吉良の饗庭塩など、もっと良質な塩の生産が始まり、吉良道を通じ信州などにも運ばれるようになり、赤穂の塩との因縁の吉良上野介と赤穂浪士の物語に至るわけです。
 海を干拓し、埋め立てて水田をつくり、やがてこのゼロメートル地帯に街が築かれていきました。これが南区の歴史です。そこに人々が住むようになります。戦災で焼け出された人々のための市営住宅も多く築かれました。地方から工業の労働力のための住宅も築かれました。しかし、大雨が降るたびに浸水に悩まされたといいます。「畳につかなきゃいいわ。縁の下ぐらいの床下浸水なんか年中だがね」という話は聞きましたが、伊勢湾台風時の巨大な高潮は想像していなかったと言います。命からがら屋根の上に避難して助かった人も多かったのですが、この地域は、ほとんどの家は木造平屋建てでした。避難の途中で堤防が決壊して津波のように水かさが増して流されたり、つかまった流木が回転するので水中に沈められたりしました。そして、貯木場から流れ出たラワン材などの丸太により壊された家々とその残骸がほかの家を壊し、多くの犠牲者が出たのです。  
 
 絵1 尾張名所図絵に見る星崎塩田
   
図1 伊勢湾台風・名古屋港潮位記録と気圧の推移 図2 名古屋市臨海部防災区域 名古屋港潮位モデル図に加筆
   
写真1 伊勢湾台風のときの名古屋  写真2 米軍が撮影した白水小学区 
   
図3 大正15年の都市計画  絵2 伊勢湾台風で崩壊した石垣堤防の絵(筆者) 
想定外と言わない対策を
 大正15年の都市計画(図3)では公園の予定だったところに、昭和20年、天白川からの土砂が名古屋港に入らないように防波用に石垣で
かさ上げされた堤防のままで貯木場がつくられ、その石垣の堤防が伊勢湾台風で900mにわたり一気に崩壊しました(絵2)。当時、木材業
界は空前の好景気。1950年に始まった朝鮮戦争による特需がきっかけとなり、ベニヤのための原木、建築資材から線路の枕木まで木材はあればあるだけ売れる。貿易は日本経済の柱の一つで、木材業者や商社は競うように原木を輸入し、貯木場の外にまで大量の材木が係留されていました。関係官庁も黙認していました。そこに想定外の巨大な台風と高潮が襲いかかったのです。
 戦後経済の建て直しの頃で、復興計画はありましたが充分な防災計画はありませんでした。戦後名古屋の都市計画を主導した方が、台風の翌年に語ったそうです。 「伊勢湾台風につきましては、まったく油断しておった問題がございます。いつの間にか台風災害とかあるいは高潮災害といったようなものを忘れて低湿地帯に住宅をつくったりした、非常な今度の失敗だったと思います」。
 伊勢湾台風を機に、国の災害対策基本法が生まれました。
 それから55年、私たちは命を大切にする社会を築いているのでしょうか。すでに、防潮堤は沈下しているところもあります。2009年(平成21年)の台風18号では、T.P+4.6mの高潮によって三河湾神野埠頭に置かれたコンテナが流され(写真3)、高潮の高さはすでに伊勢湾台風を上
回っています。2013年11月8日にフィリピンに上陸した台風30号(ハイエン)は伊勢湾台風の規模を上回っています。想定外だと言わない対策を取ってほしいものです。 
 写真3 2009年の台風18号のときの流されたコンテナ
 
 写真2 矢穴石 図3 フォッサマグナの断面(糸魚川市ホームページより)