保存情報 第154回 | |||
登録有形文化財 | 蓬左文庫 旧書庫 | 福田一豊|福田建築事務所 | |
旧書庫北面 | 内部エントランスホール | 書庫の位置変遷 | |
■紹介者コメント この文庫は尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫で、現在、約11万点の書籍、および尾張徳川家に伝えられた名古屋の城下図をはじめ2千枚をこえる多彩な内容の絵図が所蔵されています。 旧書庫は、明治22 ~ 23(1889 ~ 1890)年頃、尾張徳川家大曽根邸内敷地に建設された土蔵のうち第1号・第2号を昭和10(1935)年に解体し、軸組みや小屋組みなどの古材を再利用し1棟の建物として、敷地南西部分(図参照)に移築改築したもので、改築に際しては図面および仕様書が作成され、それに基づき実施されています。基礎、外壁および屋根は鉄筋コンクリート造として補強し、床を高くし換気に配慮しています。内部小屋組みはキングポストトラスとし、意匠的には土蔵の形態を踏襲していますが、窓はすべて塞ぎ、2カ所の入り口には金庫扉を取り付けています。内部は当時の土蔵の様子をよく知ることができ、また昭和初期の建築技術の水準を知る上で貴重な遺構です。昭和57(1982)年まで書庫として、その後は仮書庫として使用されました。平成16(2004)年の改築で曳家を行って北向きに回転させ、現在はエントランスホールとして再利用されています。 この建物が本格的に使用されたのは、この文庫が昭和10(1935)年東京で開館したことや、戦争で所蔵品が信州に疎開したことなどから、昭和25(1950)年の名古屋市移管後と推察されます。翌年、現在地において一般公開が始まり、昭和53(1978)年からは名古屋市博物館分館となっています。 |
※「蓬左」とは江戸時代使用された名古屋の別称で、熱田神宮が伝説の蓬莱島にあたるとされ、その左方に位置したことからこう呼ばれた。 ※2014年3月に登録有形文化財(建造物)として答申、9月に正式登録になるので登録有形文化財とした。 建物概要:寄棟造り 本瓦葺き 桁行26.8m 梁間7.9m、 1・2号土蔵の建設時期は明治23(1890)年頃 設計者:吉本与志雄(図面および仕様書が現存している) 所在地:名古屋市東区徳川町1001 TEL 052-935-2173 FAX 052-935-2174 交通機関:市バス基幹2号系統「徳川 園新出来」停下車徒歩5分 |
||
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) | 神谷勇雄|ユウアンドアベトウ | ||
志段味古墳群分布図 | 東谷山白鳥古墳1号石室 | 国史跡白鳥塚古墳:名古屋市守山区 大字上志段味字東谷2107 |
|
■発掘者のコメント 古代の名古屋市は大半が海であったが、守山区周辺は陸地として多くの人が住んでおり、のちにいくつかの集落が出来上がった。名古屋市内には約200基の古墳があると言われているが、この約半分が守山区にあり、4世紀から7世紀にかけてある程度の文化があったものと推察される。 主な古墳 ・ 国史跡白鳥塚古墳 4世紀中頃に築造され、東谷山麓西側に位置する前方後円墳で、全長約105m、高さ約6m、後円部径約55m、前方部の最大幅約26m。古墳時代前期のもので原型をほぼ保っている。後円部には白色石英の葺石が全面を覆い、美観が白鳥に似ているところから白鳥塚の名で呼ばれるようになった。形態などの特徴が、ほぼ同時期の近畿地方の前方後円墳とよく似ているため、近畿地方にあった当時の政権(大和王権)と強いつながりがあったと考えられる。 ・ 東谷山白鳥古墳1号 7世紀初頭に築造され、ほぼ完全に残存する横穴式石室がみられる。(写真) ・ 西大久手古墳 5世紀後半に築造され、人物埴輪と馬形埴輪は、全国的に見ても例の少ない初期の例で、東日本では最古のもの。 ・ 勝手塚古墳 6世紀初頭に築造された帆立貝形前方後円墳であり、墳丘の後円部は2段に築かれている。周濠も含めてほぼ完存しており、埴輪列 が確認されている。 ・ 尾張戸神社古墳 4世紀中頃に築造された直径約30mの円墳と考えられる。調査では、国史跡の白鳥塚古墳と類似した葺石や石英が検出されており、強い関係があることが推測できる。 ・ 中社古墳 4世紀後半に築造された。発見された円筒埴輪は濃尾地方では最古のもの。近畿地方の大型古墳と同じ特徴をもつ埴輪であるため、近畿の政権中枢部と密接な関係があったと考えられる。 ・ 南社古墳 古墳時代前期に築造されたと考えられる墳丘長約55mの前方後円墳。 ・ 東谷山古墳群 東谷山西麓に所在する古墳時代後期の群集墳。現在は一部の古墳が残存するだけだが、本来は約50基の古墳が密集する、尾張地方最大級の数を誇る古墳群であった。 |