保存情報 第153回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査 味美二子山古墳  山上薫|山上建築設計
公園より見る 南側道路より見る 平面図
■発掘者のコメント
 春日井市内にはかつては90基を超える数の古墳が存在したとされているが、高度成長期の区画整理など大規模な開発によって、十分に調査されないままに姿を消していった。
 現在、6基が現地あるいは移設により復元整備されているという。味美二子山古墳は、味美白山神社古墳、御旅所古墳とともに、同市の西南端部で、名鉄小牧線味鋺駅の北300m、二子山公園の中にある。
 6世紀前半の築造と推定される前方後円墳で、全長96m、盾形周濠を有する。前方部は北北西を向く。市による周辺部の発掘調査(複数回)などにより、各種の埴輪が出土している。1936年に国の史跡に指定された。現地に立って眺めてみると、濠の外を含め一面樹木に覆われているため、図面で見るような特有の形を認識するのは難しい。公園内にはハニワの館があり、馬形埴輪、壺形埴輪、円筒埴輪、須恵器や古墳に関する解説パネルが展示されている。
 愛知県下で現存する古墳のうち、名古屋市熱田区断夫山古墳(151m)、犬山市青塚古墳(120m)、名古屋市守山区志段味白鳥塚古墳(109m)に次ぐ規模で、6世紀前半に限定すれば断夫山古墳に次ぐ大きさとなる。この2基の古墳は継体天皇(在位507 ~ 531年)の墓といわれる大阪府高槻市今城塚古墳(190m)と規模こそ異なるものの墳丘規格が類似していることから、継体天皇の支持勢力としての深い関係や豪族尾張氏の起源に関わる可能性が考えられるという。
 古墳は3世紀後半から7世紀末にかけてつくられた大王や豪族など政治的権力者の墓である。一口に古墳といってもその形は多種多様で、前方後円墳は大王墓などに採用されることが多く、古墳を代表する形といえる。
 前方後円墳というと、私は小学校で習った堺市にある仁徳天皇陵(486m)を思い出すが、これは墓域面積では世界最大級といわれる。
所在地:春日井市二子町2 二子山公園内
形  状:前方後円墳
規  模:全長96m、後円部径48m、高さ8m、
     前方部幅65m、長さ54m、くびれ部幅38m
築造年代:6世紀前半
史跡指定:国の史跡(1936年12月16日指定)
参考資料:春日井市教育委員会民俗考古調査室編
     「味美二子山古墳の時代」第一分冊
     春日井市教育委員会文化財課編「平成
     18年度文化財特別展 春日井の古墳」
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 旧村瀬銀行萩原支店  谷  進|タクト建築工房
 
外観 金庫室のタイル貼りの壁 営業室の吹き抜け 応接室
■発掘者のコメント
 昭和の面影を色濃く残す一宮市の萩原町商店街は、かつての美濃街道萩原宿であり、今でも比較的当時の土地の形状が踏襲されている。そんな商店街の中ほどに建つ土蔵造りの旧村瀬銀行萩原支店は、大正9(1920)年に開業した。昭和初期の金融恐慌の影響により、村瀬銀行は昭和7(1932)年休業、萩原支店も同様に休業となり、この建物はしばらく放置され、戦後、貸店舗として使用、その後地主の営む木全乳母車店がここに移されたという。現在(2014年)は自己利用の倉庫として使用されている。
 木造2階建て、土蔵造り、寄せ棟屋根の桟瓦葺きとなっている。軒桁を外壁から持ち送り、漆喰が軒先まで塗り込められている。外壁の開口部廻りはボーダーが巡らされている。外壁は軒下の一部を除き、今は白と黒のトタンで覆われている。間口5間半、奥行き4間半の平面で、間口の東3分の2は吹き抜けの営業室、西3分の1は2層となっている。2層部分は、階段を挟んで北と南に、2階はそれぞれ洋室が並び、1階は北側に金庫室、南側に応接室が並んでいる。金庫室はボールト天井、金庫扉の周囲はタイル貼りとなっている。タイル目地はふくらみを持った「ふくりん目地」が施されており、竪目地と横目地の交差部が45度に丁寧に仕上げられている。営業室の吹き抜けの廻りは南面・東面・北面とギャラリーが巡っている。南道路面の増築された平屋部分に残る当初の出入口の踏段など、大きな改変もなく新築当時の形態がよく保存されている。
(参考:愛知県の近代和風建築・愛知県近代和風建築総合調査報告書)


物件名:旧村瀬銀行萩原支店
構 造:木造2階建て
    土蔵造り桟瓦葺き
所在地:一宮市萩原町萩原字下町
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建設年:大正8(1919)年