必ず起きる地震と災害に備えよう

日本列島は、じっとしていない

 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師
伊勢湾内で地震と津波があった 
明応7(1498)年の明応地震は、関東から東海、東南海と連動地震が起きたことの記録が残る地震だそうです。地震と津波により多くの犠牲者(10,000人以上)がでて、伊勢の国、安濃津を壊滅させたといわれています。港町として栄えていた安濃津(現・津市)の消滅は謎となっています。遺跡がないことから諸説がありますが、地すべりや地盤沈下で海中に没したことで、遺跡が見つからないようです。現在の津は、高台に移した町なのだそうです。伊勢湾を東から西に横断する“白子―野間活断層”の西端にあたるところです(図1)。
 この明応の地震と津波は、伊勢・紀伊・遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆の東海道諸国を振動させた大地震でした。余震活動も盛んであったといわれています。津波は鎌倉の鶴岡八幡宮にも襲来し、高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、現在の鎌倉大仏の姿になったといわれています。
 この時期は戦国時代(1493年~1590年)です。静岡県浜名湖の湖南の陸はつながっていて淡水湖でした。浜名川によって海へ流れていた湖がこの地震と津波によって陸が切れ、外海(太平洋)とつながって、海水と真水が混ざった汽水湖になり、今の地形になりました。このあたりを「今切」というのは、このためです。舞阪から新居(旧名・荒井)まで江戸時代は船で渡り、東海道「今切の渡し」として浮世絵にも描かれています(写真1)。
 慶長5(1600)年 今切口(浜名湖の太平洋への開口部)近くに新居関所を設置。
 宝永4(1707)年 宝永地震により全壊。翌年現在地に移転。白須賀宿「東海道32番宿」は新居の隣に位置する潮見坂下にあった宿で、この地震と津波により壊滅したため高台に移され、現在の位置が白須賀宿となった。
 嘉永7(1854)年 安政東海地震により大破、翌年改築される。これが現存の建物です。
 明治2(1869)年 関所、廃止される。
 天正13(1586)年の天正地震では、木曽川河口の島が沈没、長島城が倒壊、そのほか清洲城も被害を受け、地盤の緩さが問題となりました。五条川の堤防の破損や液状化を受け、織田氏に代わり清洲城を治めた徳川家康は、「清洲越し」を決断します。 
   
 図1 伊勢湾の活断層地図  写真1 浮世絵
「清洲越し」は集団高台移転
 関ヶ原の戦いに勝った家康が大阪の豊臣氏に備え、強固な大地の上に城を移し、尾張・清洲の城下町を丸ごと名古屋に移した「清洲越し」。次に起こる大地震を見越した集団高台移転でもあったといわれています。そして、交通の要衝でもあった名古屋を拠点に選んだといわれています。
 約130年後の宝永4(1707)年の宝永地震では、低地に広がった大阪は津波が道頓堀をさかのぼり、人々が船に避難したり、液状化などで建物倒壊が起きて多数の犠牲者が出ていますが、清洲越しした高台の名古屋では被害がほとんど記録されていません。大阪と名古屋で明暗が分かれたといわれています。
図2 中央構造線とフォッサマグナ
その他の地震被害と地形変化  
 宝永地震の49日後、富士山が噴火しています。宝永火口と宝永山が形成されましたが、火山灰などの被害のほかに、後年になり「雪成(ゆきしろ)」と呼ばれる、大量の水を含んだ雪が山の斜面を下る雪崩が発生して、弓沢川と風祭川を流下して現在の富士宮市と富士市に甚大な被害を与えています。
 「伊豆」といえば静岡県の東端に位置する半島のことですが、伊豆半島の沖合に浮かぶ「伊豆諸島」はいずれも東京都の島々です。厳密に数えれば大小100ほどある島々で構成されています。その中の主だった島々を指して「伊豆七島」と呼ぶことがあります。大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島…と8つある。これはどういうことでしょうか。実はこの中の新島と式根島は、昔は砂洲によってつながっていたため、主な有人島を総称して「伊豆七島」と呼んでいたのです。元禄16(1703)年の大地震が起き、ふたつに完全に分離して「伊豆八島」になってしまいました。今も七島と呼ぶのは、当時の名残というわけだそうです。
 伊勢湾口の離島、神島(三重県鳥羽市)の南方7キロに位置する暗礁は、鯛がよく取れたため「鯛島」といわれていた島が大怒濤で壊滅した跡だといいます。住民は神島に移り、一部は知多半島へ渡ったといわれます。島には善法寺という寺もあったそうです。瓦がしばしば網にかかることから「瓦瀬」とよばれ、水がめの破片や陶器片や自然石の石積みとみられる遺構もあります。地震による陥没か地滑りが疑われるといいます。大津波で島が沈み、「絶えの島」と呼ばれたそうです。 
不思議な篠島 
 篠島は伊勢神宮とのかかわりが深い島です。日本書紀に「倭姫命(やまとひめのみこと)」一行が立ち寄り、「御贄所(みにえどころ)」に定めたとあります。今も年3回、御幣鯛(おんべだい)とよばれる真鯛の干物をつくって神宮へ奉納しています。島の中央にある災厄を除く福寿神といわれる神明神社は、神宮の式年遷宮の際、内宮の東宝殿か西宝殿から下賜された古材を使い造営されます。さらに、解体された神明神社の古材は、歩いて5分ほどの造船と海上守護の神とされる八王子社に使われるのです。伊勢神宮とともに社殿の造営を繰り返してきた境内には、神聖な空気が流れています。御幣鯛を作る島(今は篠島と陸続きになっている)は、伊勢神宮の所有地です。
 知多半島の地層と同じ日間賀島、佐久島の石は軟らかく築城の石垣には使えませんが、篠島の地層だけは領家帯花崗岩からなる硬い岩で、加藤清正が名古屋城の築城の石垣に使ったといわれています。島には、「清正の枕石」と呼ばれる石があります。2012年に名古屋城に送られた「矢穴石」が話題になりました(写真2)。
 日間賀島は蛸の島と呼ばれ、水深約9m、篠島は鯛の島と呼ばれ、「中央構造線」に沿って水深約40mの深みがあるといいます。標高も40mを超えますが、日間賀島は10mほどの島です。 
壮大な断層帯、中央構造線 
 九州から四国、紀伊半島を通り、伊勢から伊勢湾、さらに東三河から静岡、長野・諏訪を通りフォッサマグナを横断し、関東に抜ける壮大な断層帯である中央構造線(図2)は、巨大なエネルギーがあるといわれ、龍に見立てて「龍脈」ともいわれ、「伊勢神宮」や「諏訪大社」「豊川稲荷」「高野山」など名だたる神社やパワースポットが集中しています。伊勢湾の篠島付近で中央構造線がずれているのは、もしかしたら、濃尾傾動地塊で引きずり込まれたことによるかもしれません。
 フォッサマグナの断面(図3)を見ますと、深さ6,000m以上にわたり石油が出たと見られる地層がありますが、地質学的には溝になるそうです。北アルプス(古い時代の岩石)は標高3,000mありますから、それを足すと8,000 ~9,000m以上になり、ヒマラヤ山脈がすっぽり埋まってしまう、隠された溝があることになります。
 かたときもじっとしていない日本列島。覚悟と備えは怠らないようにしましょう。奇跡の島に暮らしているのですから。 
 
 写真2 矢穴石 図3 フォッサマグナの断面(糸魚川市ホームページより)