音とトポス


舞台 

プロセニアムを超えて

山田 純

名古屋芸術大学大学院 音楽研究科 教授
   やまだ・じゅん|東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。
専門:アートマネジメント論、舞台芸術論、音楽評論。
日本音楽学会会員、日本アートマネジメント学会中部会長、日本音楽芸術マネジメント学会幹事、名古屋市高年大学講師、名古屋市民芸術祭賞審査員、音楽ペンクラブ会員、世界劇場会議名古屋理事、公益財団法人愛知県文化振興事業団理事。
新聞・雑誌などに演奏会批評やコラム、各種演奏会の曲目解説を執筆。
逃げるならどっち?
 2011 年3 月11 日、筆者の勤務する大学のオーケストラ定期演奏会が、名古屋・伏見の「しらかわホール」で行われることになっていた。夜の本番のためのゲネプロが午後1 時すぎから始まり、約1時間半ほど経ったときのことだった。間隔の長い大きな揺れだった。東日本を襲った未曾有の大地震だとあとから知った。その瞬間、楽器を抱えたままの演奏者たちは逃げる場所をとっさに考え始めた。身を守るというよりは、まずは楽器をどうやってかばうかが先に立ったという。それは二つのグループに分かれた。一つは動かずにステージ上に残って身構えたグループと、もう一つは客席に逃げたグループであった。楽器を手にした奏者たちの頭には何がよぎったのだろう。どっちが安全だと考えたのだろう。舞台派と客席派はどちらが正しかったのか?
ミューザ川崎シンフォニーホールの教訓
 東京と横浜のちょうど中ほどのところに、東京交響楽団がフランチャイズホールとして使用している「ミューザ川崎シンフォニーホール」がある。2004 年に開館した川崎市民自慢のホールである。このホールが震災で大きな被害を受けたという話を東京交響楽団の友人から聞いた。送ってくれた写真を見ると、舞台上は何ともなかったのに客席は天井がほとんど落ちてしまっていた。「本番中でなくて良かった」と語る友人の言葉は他人事には思えなかった。
 地震から1 年経った2012 年の2 月、「世界劇場会議名古屋」の「国際フォーラム2012」が愛知県芸術劇場のアートスペースで開かれた。東京のサントリーホールを設計した木村佐近氏をお招きして「ホールの大改修」をテーマに講演を行っていただいた。筆者が司会と聞き手を務めたが、その中で「ミューザ川崎」の天井崩落を例に出し、もし地震があったとき舞台の上の方が安全なのか、それとも客席に逃れた方が良いのかについてお聞きしたところ、設計士という立場上「落ちることを前提としたお話はできないが」と断わられた上で、「ホールで地震が起きた場合は、舞台の上の方が安全だ」と述べられたことが記憶に残る。舞台の上部には照明や音響などの釣りものがたくさんあるため、その固定には万全の対策が施されており、劇場でもっとも頑丈にできているのが舞台だというわけである。
 

「ミューザ川崎シンフォニーホール」で天井が崩落
特定天井のもろさ
 天井がいかに地震には脆かったかということへの反省から、国交省は「建築基準法施行令の一部を改正する政令」を2014 年4月に施行し、「特定天井の構造耐力上安全な構造方法」を、法律として定めることとなった。特定天井とは、高さが6 m以上で面積が200 uを超える天井と定義され、既存建築物にこうした吊り天井がある場合は、不適格建築物扱いになる可能性があるというものである。詳細の定義は専門家に任せるとして、俗にホールと言った場合、特定天井に該当するのは舞台の天井ではなく正しく客席のそれである。本当の危険は舞台ではなく客席にあることを、この地震が教えてくれたのである。
 劇場にいる人間にとって、そして少なくとも舞台に上ることを生業にする人間にとって、この震災がきっかけとなり、否応なしに自らが立つ舞台とそこから眺める客席を改めて意識することとなったのは確かなようだ。そして、ホールという一つの空間を舞台と客席とに仕切っているもの、それが「プロセニアム」という枠であり、その語源を辿るとやはり古代ギリシャの劇場に遡ることになる。しかし同時に、その意味は変質する。
神よ、照覧あれ!  

古代ギリシャの劇場
 古代ギリシャの劇場は、ディオニュソス神の祭礼を行う場所として起こったものである。そこで演じられるギリシャ悲劇は、もともとは観客ではなく神に見せるものであり、悲劇を演じることにより人間の行いを神に判断してもらう形をとっていた。したがって、演技は絶対的で中心的な存在である神に向けて行われ、客席に用意された「神官の席」に座る神に対して演技者は「神よ、照覧あれ!」という形で語りかけたのである。その語りかける場所が、楽屋(スケネー)の前(プロ)の部分にある前楽屋(プロスケネー)であり、ここからプロセニアムという言葉が生まれた。それが後には舞台と客席を分けるためのアーチを意味するようになり、またその形状から日本語では「額縁」と呼ばれるようになったのである。
 しかし、ギリシャ劇がローマに受け継がれると、演劇は娯楽的で芸能的な性格を持ち始め、演技は神ではなく観客に向けて行われるようになり、それとともに演技を行う場所が拡大された。また神という絶対的な中心位置がなくなったため、演技は必然的に相対的な位置関係を意識して行われる必要から、演技空間と観劇空間がはっきりと分かれるようになってきた。
そっち側とこっち側 

プロセニアム・アーチ
 客席から舞台を見て右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)という。身分の高い役を右側に配置したため右側が上位の上座となり、逆に身分の低い役が置かれた左側を下座というようになったものである。しかし、これはあくまでも相対論での話であり、もし立つ位置、見る位置が異なれば価値観も異なる。たとえば舞台の上から客席を見て発想する英語では、下手は右手(ライト・ハンドright hand)であり、同様に上手は左手(レフト・ハンドleft hand)であるからややこしい。この相対論に基づく価値基準をつくり出しているのがプロセニアムである。そのように、客席と舞台という二元の仕組みが劇場人の頭の中に存在していて、劇場の構造はもちろんのこと、劇の脚本や演出や美術をはじめとするすべてのプランニング、および舞台上のあらゆる発想が、このプロセニアムを規範として生まれているのだ。ただ広いだけの空間に、プロセニアムと呼ばれるアーチや額縁の仕切りを入れることにより、「そっち側とこっち側」という区別が可能になるのである。
舞台と神様

 額縁舞台の大ホール
 舞台は、天井にも床下にも仕掛けが一杯である。だから構造上これ以上なく頑丈につくられているはずである。にもかかわらず、舞台では大小の事故が後を絶たない。それは構造の問題ではなくすべては人為、使う人間側のケアレスミスの結果である。かつて、宝塚女優の胴体切断事故、八代英太氏の迫り落下事故、新国立劇場でのピーターパンの通訳の奈落滑落事故があった。また愛知県芸術劇場は、シュート中の照明技術者が転落死するという事故も経験している。そして、新しいところでは一昨年、国立劇場の創作舞踊に出演中の市川染五郎が、迫りから3メートル下の奈落に転落したことが忘れられない。舞台がいかに危険な場所であるかを示すほんの一例に過ぎないが、舞台には魔が潜んでいることを知るには充分すぎる。だが一方、舞台は歴史的に神様が在す神聖な場所でもあった。昔は舞台裏には必ず神棚があり、舞台人たちは無事故と公演の成功を祈り、神棚に手を合わせてから舞台に上がったものである。魔性と神性の同居する場所、それが舞台だったのである。
 そういえば、舞台に上がるときなぜ人は緊張するのであろうか。手に汗をかき、心臓は高鳴り、声はうわずってくる。それはプロもアマも変わりない。きっと、舞台は神に語りかける場所であることを、そして客席に向かって頭を下げるとき「お客様は神様」であることを、肌で感じ取っているからに違いない。