保存情報 第149回
登録有形文化財 猫谷第一・第二堰堤  谷村 茂|
アール・アンド・エス設計工房


構  造:空石積堰堤(なわだるみ堰堤) 
竣  工:明治21(1888)年
指導者:ヨハネス・デ・レーケ     (オランダ人土木技師)
登録番号:猫谷第一堰堤:24-0018
     猫谷第二堰堤:24-0019
登録有形文化財石碑(2012年10月9日) 第二堰堤側面。樹木越しに自然石の積み方が分かる 空石積堰堤上部。掌状のくぼみが見える
■紹介者のコメント
 三重県菰野町を流れる朝明(あさけ)川の上流に朝明渓谷があり、急峻な清流を受けるために上流域には多くの堰堤がつくられている。その中でも4つの堰堤がそのユニークなつくり方で登録有形文化財の指定を受けている。『保存情報Ⅱ』において、二つの堰堤を紹介したが、この堰堤からさらに上流の猫谷に「猫谷第一堰堤」「猫谷第二堰堤」を見ることができる。私は釈迦ヶ岳から下って鳩峰峠へいたる出会いの箇所でこの堰堤の石碑に遭遇した。この堰堤は高さ9m、長さ15mあり、自然の川原石を空石積の工法で大胆に積み上げている。現地の説明板によると、高さ9m、堤長5mとあるが、これは明らかに間違いで、15mが正しいように思われる。説明文にあるように、野面石を巧みに積み上げているので透水性に優れ、一方では中心を掌状にくぼませているので、土砂の流出を防ぐ効果を持っている。自然に溶け込んだ堰堤は違和感がなく、この景観は登山者にとってもやさしい目印となる。近代のコンクリート堰堤とは違って、朝明渓谷の4つの堰堤からはつくり手の技術力と素朴な美が感じ取れる。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 鳳来寺山・参道  冨田正行|エム・プロダクツ
   
平澤家住宅外観 鳳来寺山歌碑 句碑案内
■発掘者のコメント
 鳳来寺山由来/愛知県新城市鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来。源頼朝が13歳のとき、鳳来寺に3年間匿われ、その後鎌倉幕府を開き、謝恩の意を込めて本堂と三重塔を寄進し、その折に参道の石段数1,425段の石段もつくったといわれている。
 徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財である。また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である。
 参道沿いの築後180年前の伝統建築物/旧黒谷家住宅は現地調査の結果、1818年~ 1830年(文政12年間)に建てられた伝統建築物、母屋は建築面積約260㎡(約80坪)の木造平屋建ての建築物である。
 平澤家は昔大坂屋と言われ、先祖の墓には養老3(719)年と刻まれたものもあり、当時から続く名家。屋敷内には、鳳来寺参拝のために訪れる殿さまが鎮座する上段の間があった。
 松尾芭蕉と鳳来寺山表参道/松尾芭蕉(1644~ 1694)は東三河を二度訪れ、紀行文「笈(おい)の小文」に記し、鳳来寺詣でもした。
  木枯に 岩吹とがる 杉間かな
 元禄4(1691)年の冬、上方から江戸へ帰る途中、新城の門人、太田白雪を訪ねた。当時、鳳来寺山は三河随一の霊場で、芭蕉も鳳来寺山への参籠(さんろう)を希望していた。翌日の朝、白雪の案内で弟子を伴い、新城から16km以上の道を歩き鳳来寺山表参道へ到着したのは午後であった。曲がりくねった参道を進み、200段余りの階段を登ったとき、仁王門に到着する。芭蕉は身震いする寒さのために一気に疲労を感じて持病が起こり参詣を断念して下山することになった。このとき、この地で「木枯に…」の句を詠んだのであろう。(三河芭蕉会会長 豊田俊充氏談)
 ほかにも山頭火、若山牧水と多くの歌人が鳳来寺山を訪れ、歌を詠み残し歌碑、句碑が建てられている。
 鳳来寺山やその周辺は「日本の地質百選」にも選ばれた貴重な地層、多種多様な動植物の宝庫でもあり、古くから秋葉山信仰・参詣の主街道沿いにもあたり、非常に興味深い歴史的、文化的地域である。鳳来寺山トレッキングを兼ねてぜひ一度訪れてほしい。
所在地:愛知県新城市門谷字鳳来寺
文化財:鳳来寺山・(昭和6年指定名勝天然記念物)仁王門(重要文化財)
創建年:大宝2(702)年