必ず起きる地震と災害に備えよう

予知は限界、自分の身は自分で守る
 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師
 内閣府は、南海トラフ巨大地震対策の最終報告を2013年(平成25年)5月28日に発表しました。東海地震など南海トラフで起こる大地震を現在の手法で予知することは困難との見解を示し、プレート(岩盤)の滑りを地震発生前にとらえる手法には限界があり「唯一、可能性がある」といわれた東海地震の予知も難しいと認めました。    
東海地震予知と警戒宣言とは 
 東海地域のひずみ計などで異常な地殻変動を検知し、地震防災対策強化地域判定会(地震学者6人で構成)が「地震の前兆」と判断すると、首相が警戒宣言を発表。強化地域(愛知、三重、静岡など1都7県の157市町村)では東海道新幹線をはじめ鉄道が全面ストップするほか、高速道路や一般道でも地域内への流入を制限。百貨店や銀行、劇場も営業を停止し、地震発生に備える、とされていました。
 東海地震の予知は、地震発生前に震源のプレートがわずかに滑る「前兆滑り」を検知し、直前に警戒宣言を出すことが基本。そのために静岡県や愛知県などに、地殻変動を検知する「ひずみ計」の観測網を敷いています。「前兆滑りが検知できず地震が発生することや、検知されても地震が発生しないことはあり得る」と説明、南海トラフ沿いの東海、東南海、南海の三地震が連動するかも分からず、東海地震や連動型の巨大地震の高い予測は困難であるとしました。前兆滑りは、巨大地震の発生予知に役立つと期待されながら、これまでの大地震前に観測された例はなく、予知の限界が指摘されていました。東海地震は唯一、予知できる可能性がある地震という「常識」は大きく揺らぐことになりました。「予知」を前提とした避難訓練や教育を受けた人も多いと聞きます。
 国は1965年(昭和40年)に地震予知計画を開始。巨額の費用(2004 〜08年度までで計3,000億円以上)で、前兆滑りなどの予知のための観測網を張り巡らせていると聞き、過大な期待がありました。東日本大震災でも明確な前兆は確認されませんでした。自然現象は複雑であり、明確に予知できるものではないのでしょう。教育現場などではすでに「予知は困難」との考え方に切り替えたとはいえ、戸惑いは隠せません。 
 
 図1
地震保険とは地震と津波と噴火
 地震には、@プレート(海溝)型地震とA内陸直下型地震、B火山噴火地震、の3タイプがあります(図1)。
 @プレート型地震は、海底においてプレート相互のぶつかり合いによってプレート境界面に発生する「プレート性地震」と呼ばれるもので、東日本大震災や東南海地震などがその代表的な地震です。
 A内陸直下型地震は、プレート間に加わるひずみエネルギーが境界面で解消せず内陸において断層を生じて発生する地震で、濃尾地震や阪神淡路大震災などがこれに当たります。
 我が国の周辺で発生するプレート型地震の最大はM9、M8級で、多くは津波を伴って広い地域に大きな被害を与えています。これに対して内陸直下型はM7級で、プレート型と比べれば、そのエネルギーは一桁小さい地震ですが、我々が住んでいる直下で発生するため局地的であっても激しい揺れを伴い、人命や家屋財産、公共施設に甚大な被害を引き起こすことが少なくありません。
 表1は明治以降(明治以前も一部含む)現在までに発生したプレート型と内陸直下型地震を一覧表にしたものです。内陸直下型地震ではM7級であるにもかかわらず、死者の数が多く被害の大きさを物語っています。
 B火山噴火地震については、噴火に伴う地震よりも噴火物、溶岩流や火砕流による被害や、川を堰き止めたための泥流被害などが圧倒的に多いです。
 これら「地震、津波、噴火」をカバーするのが地震保険です。 
 
表1 プレート型地震と内陸直下型地震の比較
未曾有の内陸直下型地震被害  
 濃尾地震は、1891年(明治24年)10月28日に発生しています(図2)。日本の内陸で発生した最大級の直下型地震で、M8の地震です。阪神淡路大震災の約30倍ものエネルギーが放出されています。この地震で「根尾谷断層」が出現しました。福井県南部から岐阜県西部を縦断して、愛知県境にまで至る巨大な断層です。震源付近の断層は垂直方向に6メートルもずれていて、この地震の規模がいかに大きかったかが分かります。根尾谷地震断層観察館で見ることができます。
 救援活動に大きな力を発揮したのが、名古屋城内に本部をおく陸軍第三師団です。地震当日から師団長自らの判断に基づき、倒壊家屋の開削、拡大火災の消火、炊き出し、軍医を派遣し負傷者の治療をしています。師団長の即断即決の救助活動は、被災者の人命を保護し、人心を安定 させる上で大きな役割を果たしました。 
 
図2 濃尾地震による震度分布
幻の東海地震  
 安政東海、東南海地震は1854年(嘉永7年・安政元年)12月23日に起きて、24日に安政南海地震が起きました(安政の南海トラフ地震)。それから、90年後の1944年(昭和19年)12月7日に東南海地震が起きました。そのとき東海地震は起きなかったといわれています。当時は戦争中ですので、軍による報道管制が敷かれている中、「震源地は駿河湾」との新聞記事があります。なかったはずの東海地震が掲載されているのです。東南海地震の液状化分布図(図3)によると、静岡県が多く液状化しているのが分かります。倒壊家屋も多かったと思われます。静岡県は建築基準法において耐震基準を2割増しにしているのも理解できます。緊迫感が違います。
 紀伊半島は津波に襲われました。東日本大震災のように、複数の地震と余震があったようです。掛川では水準測量をしていて往復で測量値が違い、地震の後に数値が同じになったそうです。浜松の軍事産業の工場も壊滅的な被害を受けています。
 駿河湾の東海地震があったとすると、それから70年、次の地震まで約20 〜30年くらいあることになります。地震、災害は突然襲って来るもの。「時なし、場所なし、予告なし」と言います。自分の身に起きることを想定して、自分の身は自分で守ることです。そのためにも、我々の住む地域の成り立ちと歴史と現状を知ることです。  
 
図3 東南海地震(1944.12.7)による液状化分布図