必ず起きる地震と災害に備えよう
1
この地域の災害と歴史を確認すべし
 川窪 巧
一級建築士事務所 川窪設計工房
   かわくぼ・たくみ| JIA 愛知会員。
1947年生まれ。
名城大学卒業後、設計事務所勤務を経て、
1983年、愛知県岡崎市で川窪設計工房設立。
県立半田工業高校非常勤講師
 台風30号に襲われた。2013(平成25)年11月8日被災者950万人、61万人が住む家を失った。最大瞬間風速が90mにも達し、死者は11月29日現在5,500人を超える。「5mの高潮で家が壊れた」「まるで津波のような波が何度も襲ってきた」と被災者の声。フィリピンからの惨状の映像を見れば、東日本大震災や伊勢湾台風の惨状の記憶が蘇る。もしも東海地方に上陸していたら、被害を防ぎきれないのではないかと危惧する。大型台風30号はアジア名「Haiyan(ハイエン)」と言う。
 では、伊勢湾台風を何と呼ぶか国際名を知っていますか。   
   

表1|死者・行方不明者が多い地震と災害(枠外の表示は東日本震災の周期。左側の数字は明治以降の犠牲者数の多い順) 
世界の地震の10%は日本で起きる  
 2011(平成23)年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起き、大津波が襲った大災害は、本震のM9.0をはじめ余震のM7.5、M7.4、M7.3の複合であり、揺れも津波も前代未聞。いまだに余震とされる地震が発表されています。死者・行方不明者18,534人、流失、消失を含む全壊・半壊戸数は399,028戸と膨大です。地盤沈下や液状化の対策など、これからも繰り返し起きる地震と津波対策の問題は山積ですが、もう「風化」という言葉が出ることに違和感を覚えます。
 日本は世界の面積の0.7%の面積しかありませんが、地震は世界の約10%も起きています。北米プレートとユーラシアプレートが交差して押し合い、その上に日本の国土が乗って、地下からのマグマにより活火山がある。富士山、浅間山、御嶽山、アルプス山脈などが形成されており、世界でも稀な場所なのです。プレートとプレートの境界(フォッサマグナ)があるのは、日本とニュージーランドぐらいです。日本で暮らすからには防災意識を持ち、自分の  
戦争末期、幻の東海地震  
 私たちの東海地方では、太平洋プレートが潜り込むその先のフィリピン海プレートがユーラシアプレートに潜り込んで起きる津波を伴う地震が90 〜100年間隔で起きています。長い期間でも150年です。
 いつ起きても不思議ではないと言われているわれわれの住む地域の地震は、前のものは1944(昭和19)年12月7日に起きた東南海地震で、津波を伴うプレート型の地震でした。その1カ月後の1945(昭和20)年1月13日に起きた直下型の三河地震では、愛知県西三河で2,306人の死者が出ています。1946(昭和21)年12月21日には南海地震が起きましたが、東海地震は起きなかったと言われます。本当に駿河湾の東海地震はなかったのでしょうか。
 東南海地震の起きた12月7日は日本軍が真珠湾攻撃を仕掛けた日と同じ日で、地震兵器が使われたとの説もあるのです。「地震の次は何をお見舞いしましょうか」−。地震の後、米軍が撒いたビラにそう書いてあり、驚いたそうです。そしてB29による爆撃が始まったと言われています(写真1)。
 軍隊による報道管制が敷かれており、写真や資料が残されていないのが実情です。東海地震が幻の地震といわれているのは、そのためです。今も額田郡幸田町の深溝(ふこうず)断層(写真2)、蒲郡市の宗徳寺の地割れ、蒲郡市金平町の隆起跡など痕跡は多く残っていて、蒲郡市、幸田町、西尾市にわたり今も見ることができます。ぜひ、自分の目で見ていただきたい。
 1945(昭和20)年8月15日終戦。東海地震は起きなかったと言われます。さかのぼって安政の東海、東南海、南海地震(1854年)の地震から起算をすると、160年経過しています。重要な警戒地域になっています(表2)。昨年、東海地震が30年以内に発生する確率が88%まで高まったと政府の地震調査委員会から発表されました。    
   
 写真1|中島飛行機半田製作所の爆撃跡(米軍撮影)   写真2|幸田町深溝断層。水田の右(南側)が1m以上盛り上がっている
造成地は満潮海水面より低い  
 江戸時代の東海道も、宮の渡しから桑名まで海路7里でした。引き潮になると沖に出るため10里かかったそうです。浮世絵にある木造船ですから浅くても使えたのでしょうが、この宮の渡しから熱田港、名古屋港にするため浚渫が必要で、港区は浚渫泥により造成されてきました(図1)。戦時中、港区大江町にあった三菱重工業名古屋航空機製作所で零戦(零式艦上戦闘機)をつくっていましたが、東南海地震による液状化で基礎ごと沈み込み、軍需産業の壊滅と言われるほどで、一瞬の地震で決定的パンチを食らいました。
 東日本大震災では、千葉県浦安市で浚渫泥によって造成された土地が液状化しました。同じように、造成された土地には満潮海水面よりも低いところもたくさんあります。
 伊勢湾台風では、高潮による堤防の決壊とラワン材の丸太の流出などにより、家が破壊され犠牲者も多く出ています。江戸時代から始まった干拓は、名古屋市南区に残る源兵衛町や又兵衛町など地名に残っています。民間による干拓の歴史です。海抜0m地帯に、戦後多くの人が労働力として集まり、そこを台風が襲いました。
 伊勢湾台風では5,098人の死者・行方不明者が出ています。名古屋市南区の死者が1,471人、そのうち白水小学区(柴田分校、千鳥分校を含む)だけで970人もの犠牲者を出しています。海水面より低い土地で暮らしていて、丸太の流木や壊された家がぶつかり、ほかの家を壊したため、名古屋市ではこの辺りを条例で木造禁止区域に定めています。
 海抜0mは、東京湾の干潮と満潮の平均値をとってT.P.±0と表示しています。名古屋港基準面(N.P.)はT.P.よりも1.412低く、つまり、満潮のときは、1.4m海の中という土地が海抜0メートルなのです。富士山の3,776メートルはT.P.からの高さ表示なのです。都市計画図には標高が表示されていますので、確認しょう。
 “安心、安全、楽しい暮らし”を実現するために、この地域の歴史と災害を確認して、防災、減災の意識を持っていただく助力になれば幸いです。
 
図1|600年ほど前の名古屋の地形 表2|地震の発生記録と東海地震の発生予測