保存情報 第146回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 陶磁器卸問屋 山繁商店  三輪邦夫| RE 建築設計事務
 
事務所 車止め 離れ
■発掘者のコメント
 明治時代以降、瀬戸の窯業は、これまでの尾張藩による封建的な保護政策から開放されたことにより、自立自営の道が開かれ、大きく発展することになる。
 山繁商店は、今でも続く問屋の一つであり、明治中期に初代加藤繁太郎が起業した陶磁器卸売業である。瀬戸川流域の北側に位置する北新谷と呼ばれる地区の一番下手にある。丘陵地の斜面に多くの窯屋が集積し、製品の集積、運搬に有利な立地である。広い敷地に工場群、旧事務所、新小屋(元作業場)、蔵、離れ、そして今はないが母屋が配置されている。
 工場群は木造平屋建て、屋根は木造トラス構造。細い部材の軽やかでリズミカルな空間構成。旧事務所は木造2階建て、入母屋造り、屋根は木造トラス構造と珍しく、当時の進取の気持ちが伝わってくる。新小屋は木造2階建て、間口10間×奥行3間のいわゆるモロ(陶磁器の作業場)。離れは木造2階建て、寄棟造り、母屋と渡り廊下でつなぐ。その間に広い中庭があったと言われている。
 離れの北入り玄関は6畳ほどの土間である。奥まで通り土間であったと思われる。右手の部屋が8畳の前室、その右奥に座敷がある。廊下を介して中庭を見ることができる。前室の奥が8畳の次の間、その右手奥に押入れ付き8畳の間がある。その押入れには階段があり2階の倉庫に通じている。廊下から中庭を眺めながら2階へ上がっていく。正面に3畳の前室が現れてくる。前室の右手が押入れ付きの次の間、次の間の奥が8畳の2階座敷、ビワ台付きの床の間がある。前室の奥には4.5畳の茶室がある。座敷からも直接入ることができる。2階西端には16畳の茶器などの倉庫があり、さぞ多くの客が出入りしたと想像される。
所在地:愛知県瀬戸市仲切町
建築年代:明治22年(1889年)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 東寺町~新栄界隈  尾関利勝|地域計画建築研究所
   
照遠寺 楼閣式山門 東充寺 
   
尾張名陽図(左)と尾張名所図会(右)に見る東充寺   現在の東寺町の地図 安政の城下町図 
■発掘者のコメント
 名古屋では、今でも城下町の名残を各所で見ることができる。新栄付近で飯田街道に南に交差する東寺町もその一つ。戦災復興土地区画整理事業で整備された名古屋の街路の中で、ここの道は少し斜めになっていて、城下東の街路形態を良く伝えている。
 寄席で知られる含笑寺はじめ、今でも約20 ヶ寺(名古屋城築城時の創建)を図上で確認することができる。ほかに、都心外縁立地のマンションになった寺跡が幾つかある。
 通称浄土寺町、法華寺町の2本の筋は寺がよく遺された見所だ。戦災で焼けた寺が多い中で、なぜか山門だけ焼け遺った寺が多いのは、ここだけではない名古屋の不思議である。
 通称法華寺町錦通北の法華寺は多くを消失したが、次の照遠寺は本堂・庫裏・山門・鐘楼共に焼け遺った。棟が短く裾に広がる富士型の屋根形状、本堂の右手に庫裏を配置するのは名古屋の古い寺に共通し、仁王像のある楼閣式山門は特徴的だ。その北東、浄蓮寺の西側には飲食店や美容院などに活用された大正~昭和初期と思われる長屋がある。歴史が今に生きる心の和む通だ。
 布池通の北には三角形の区画整理公園がある。その東は小さいが庭の手入れが行き届いた安斎院、西側には通称“へちま薬師”の東充寺がある。本堂は妻入で昔の絵図とは90度ずれている以外、尾張名陽図などに描かれたほぼそのままで遺されているのがうれしい。スケールが人間的で、私はこの寺をとても気に入っている。
 東寺町は大須のような賑わいはないが、・伊・仏などの高級レストラン、ワインバーのほか、新栄周辺には丸子ビル地下はじめ、多様なライブハウスがある。
 都心の外縁的な位置にあることに加えて、寺町の歴史的な雰囲気が、この町の文化的イメージの背景になっているのかもしれない。
所在地:名古屋東区東桜2丁目~中区新栄1丁目 旧飯田街道 北・南
アクセス:名古屋市営地下鉄・市バス「新栄」下車北西徒歩すぐ。
地区の散策は1 ~1.5時間程度