音とトポス
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ギリシャ 

悲劇とカタルシス

山田 純
名古屋芸術大学大学院 音楽研究科 教授
   やまだ・じゅん|東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。
専門:アートマネジメント論、舞台芸術論、音楽評論。
日本音楽学会会員、日本アートマネジメント学会中部会長、日本音楽芸術マネジメント学会幹事、名古屋市高年大学講師、名古屋市民芸術祭賞審査員、音楽ペンクラブ会員、世界劇場会議名古屋理事、公益財団法人愛知県文化振興事業団理事。
新聞・雑誌などに演奏会批評やコラム、各種演奏会の曲目解説を執筆。
『一ノ谷嫩軍記』の不条理   
 もうだいぶ前のことである。まだ二十歳そこそこの頃、国立劇場で歌舞伎の人気演目『一ノ谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』を観たことがある。名人と謳われた九代目市川海老蔵が熊谷直実を演じるという話題の公演であったが、海老蔵のすごさも、はたまた歌舞伎の何たるかも知らずに、ただ漫然と足を向けたに過ぎなかった。それでも私の舞台へのかかわりの原点が、この『一ノ谷嫩軍記』となった。
 内容についての知識は全くなく、パンフレットで筋を必至に辿りつつ舞台を眺めていくと、だんだんと複雑な気持ちに駆られてきた。「この筋書きはおかしい」と思い始めたのである。ここで物語の筋を記す必要がある。源平合戦の最中、熊谷直実は源氏の武将ながら、かつて恩義を感じていた平家側の主人の子である平敦盛を助けるために、年格好が同じ自らの息子小次郎の首を落として、義経に首実検へと差し出すというもの。最初にこの舞台に接してからずっと、この不条理性が気に掛かって仕方がなかった。なぜ、恩義を感じていたとはいえ相手方の武将を助け、その代わりに息子の首を落とすのか? 直実の苦悩と逡巡に涙こそすれ、実生活ではあり得ない筋書きがなぜ演劇の世界では許されるのか? 以来、首取りの場における斬首の所作、そして作り物ながら落とされた首の生々しさが、この疑問とともにしばらく記憶から消えることはなかった。  
 
熊谷直実 
『サロメ』の猟奇 
 不条理な演劇といえば、オペラにおいてはR. シュトラウスが作曲した楽劇『サロメ』にとどめを刺す。この作品でも斬首が重要な要素となる。オスカー・ワイルドの同名の戯曲のオペラ化であるが、猟奇的な作品だとして発表当時から蛇蝎視(だかつし)されたオペラである。内容を記す。
 義理の父親ヘロデ王の色目に堪えかねたサロメ。井戸に捕らわれた予言者のヨカナーンに心を奪われ、無理矢理外に出させて口づけを求めるものの「呪われよ!」と拒絶されてしまう。色欲に眩んだヘロデ王に、ヨカナーンの首と引き替えに裸の踊りを見せると約束し、銀の皿に載せられ運ばれてきた血の滴るヨカナーンの首を高く持ち上げ、「やっとおまえは私のものになった」と言って、生首に口づけをするというもの。『一ノ谷』の不条理性にしても、『サロメ』の猟奇性にしても、それらは本来人間が持っている正常な意識とは乖離し、普段の生活の中では接し得ないものである。なのに、なぜそれらを人間は演劇の中に求めるのか? それを考える一つのきっかけはギリシャ悲劇にある。  
 
 サロメ
『エディプス王』の狂気  
 ソフォクレスの『エディプス王』は、今日に至るまであらゆる悲劇の雛形となったものである。物語の内容はこうだ。
 テーバイ王とその妻イオカステは、息子が生まれたので予言者に占ってもらったところ、「父を殺して母と結婚する」と告げられ、恐れおののいて赤子を山に置き去りにしてしまう。だが、拾われてコリントスの王子として育てられ、成人したエディプスは、あるとき父とは知らずにテーバイ王を殺しその王座に就いた。そして王の妻であったイオカステと結婚するのである。後にその事実を知ったイオカステは縊(くび) れて死に、またエディプスは醜い世界を見たこの目が憎いとばかりに、針で何度も両目を刺し貫き、盲目となって放浪の旅に出るというもの。狂気の物語である。 
 スフィンクス(左)とエディプス 
カタストロフとカタルシス 
 こうした日常の世界にはあり得ないような物語が、人間に与える精神的・心理的な効果を明らかにしたのが、ギリシャの哲学者アリストテレスであった。悲劇論『詩学』の中で、悲劇とは安定した状態を歪ませて不安状態を上手に生じさせるもので、その不安をつくり出す重要な要素が「カタストロフ」であると述べた。「カタストロフ」とはギリシャ語で「覆す」という意味を持ち、日常世界にはない大変動や破局のことを表す。そこで範として取り上げたのがこの『エディプス王』であった。
 つまり、劇的な表現には「発見」と「逆転」と「浄化」が必要だと述べ、もし発見したら自分の存在が否定されるものを発見し、その結果、現在の好ましい自分の立場が逆転することが劇的な表現には欠かせないこと、また発見と逆転の結果、劇を見ている人々の心に驚き、恐れ、悲哀が生まれ、そうした感情を通すことにより観客の心が浄化されることを説いたのである。「浄化」とは、精神分析学や心理学では「カタルシス」として使われている用語であるが、本来ギリシャ語では「嘔吐」や「下痢」や「排泄」の意味を持っている。要するに、心の中にため込んだ汚物を外に排泄してスカッとした気持ちになること、それが悲劇を鑑賞することの効用だというわけである。 このように、カタルシス論はアリストテレスの『詩学』における悲劇論の中核をなしており、劇の内容が非日常的であればあるほどカタストロフも大きくなり、その結果カタルシスの度合と効果も高くなるのである。  
悲劇と白日夢 
 このカタルシス論は、オーストリアの精神分析医フロイトにより、代償行為で得られる満足を表す心理学用語として採用され、また実際の精神治療にも応用されてきた。さらに、フロイトの精神分析の基本に精神的コンプレックスという考え方があり、『エディプス王』を例にとり、息子が母に対して抱く近親相姦的な葛藤を表す複合状態が、「エディプス・コンプレックス」として広められたのは周知のこと。こうした精神的コンプレックス状態を解放することもカタルシス効果の一つだという。
 一方、白日夢もフロイトの精神分析の中核にあり、空想で満足するという白日夢と代償行為はある意味で同根の作用と言える。だが、普通の人間なら夢の世界から現実の世界に戻る道を知っているが、それを忘れた人間がいるともフロイトは付け加える。帰り道を忘れたらどうなるのか? 『一ノ谷嫩軍記』や『サロメ』ならずとも、今日、小説やテレビや映画などで、場合によっては残忍この上ない猟奇的な物語に私たちは接し慣れている。普通の人間はこれらがあくまでも劇の世界であることを知っていて、見終われば日常の生活に戻れるが、どうも世の中の現象を眺めると、フロイトの指摘の通り、帰り道を忘れた人たちが少なからずいるようだ。とまれ、優れた「悲劇」は、不条理であれ猟奇であれ狂気であれ、非日常性の世界に私たちを誘い、そして現実へと解放してくれる。それは、高度に様式化された白日夢とカタルシスの世界だと言い換えることができるだろう。  
 アリストテレス