自然・人間・建築と環境 
第1 回
感覚・行動と時間デザイン
  しゅくや・まさのり|自然のポテンシャルを生かした光環境や熱環境づくりについて、熱力学・人間生物学の視点に立った研究と教育に携わっている。
専門は建築環境学。
著書に『Exergy:theory and applications in thebuilt environment』(2013年1月、Springer-Verlag London)、『エクセルギーと環境の理論』(改訂版2010年9月、井上書院)など。   
宿谷昌則|東京都市大学環境学部環境創生学科 教授 
 “環境”なるキーワードが建築設計の主題として取り上げられ始めて20年以上が経過しただろうか。“自然環境との共生”“環境にやさしい”“地球にやさしい”といった謳い文句を設計主旨の中に見るのが当たり前になった。
 設計者の多くが“環境”“自然共生”といった事柄を考えるようになった証しだと思えて嬉しくなることがある一方で、少なくはない事例が空虚なスローガンをただ単に並べているだけであるのを知って、「道は遠し」と悲しくなることもある。空虚なスローガンが実質を伴う建築へと変容していくには、まだまだ長い時間が必要だろう。1950年代から今日までの60年にわたって形成されてきた私たち日本人の人間観・社会観、ひいては建築観は、良くも悪くもそれほど急に変われるほど軽くはないからだ。
 筆者がここで改めて述べるまでもなく、建築には芸術的・文学的という側面と技術的・科学的という側面があって、それらの総合として建築は成り立っている。そこに建築の面白さがあるだろう。私たち専門家の頭(脳)の使い方は、芸術・文学・技術・科学といった側面の違いによって異なるだろう。その逆にこれら側面の違いにはよらず、対象が建築であるがゆえの共通した頭(脳)の使い方もあるかもしれない。建築の見方や考え方にある特徴は何だろうか。
 何かの手掛りがつかめるかもしれないと思って、建築作品の審査会に呼ばれるたびに、応募作品の外観や内観写真に人が写っているか否かを数えたことがある。その結果はいつも概ね同じで、人の写っている写真10 ~20%、人の全く写っていない写真80 ~90%である。これは何を意味しているだろうか。
 建築はどんな用途にせよ、その住まい手・使い手のためにある。設計者はみな、訊ねられれば、“もちろん住まい手・使い手のことを考えて設計している”と答える
だろう。しかし、建築のつくり手が、建築のいわゆる見栄えに気をとられ過ぎて、住まい手の存在を軽んじてしまっている…ということはないだろうか。80%を超える応募作品に人の写っていない写真が用いられているという事実は、その可能性が否定できないことを示していると思う。
 以上のように写真のことを考えているうちに改めて気づいたのは、すべての写真が瞬時における空間を写し撮っていて、時間が止まっているという当たり前の事実である。これは、時間の流れがあってはじめて知覚・認知し得る建築の側面を、建築にかかわる人々、特に建築家と呼ばれる人々に知らずしらずのうちに軽んじさせる傾向を産みだしてはいないか。 空間の知覚は主として視覚に基づいており、それを補う感覚として聴覚・触覚・嗅覚がある。これに対して時間の知覚は主として聴覚に基づく。写真撮影に対して録音を考えてみよう。写真は3次元空間を2次元空間に圧縮して記録している。その際に
「時間」性は捨てられる。録音は時間の流れの中に現われる音という現象を、例えばDVDなどの媒体上に磁気パターンとして記録することだ。その際に「空間」性は捨てられる。
 以上のような視覚的側面たる「空間」は〈構造〉と言ってもよい。〈構造〉とは〈機能〉に対置されるべき目に見えるカタチ、〈機能〉は振る舞いカタを指す。〈構造〉・カタチは写真にとれるが、〈機能〉・カタは写真にとれない。後者は時間の流れの中に現われるからだ。カタチは空間的・視覚的、カタは時間的・聴覚的である。
 〈構造〉と〈機能〉の関係は、大気・水と循環、心臓・血液と循環、脳と心、文字と音声、音符と楽音、幾何と代数、分数と循環小数、光の粒子性と波動性など、さまざまな学問や芸術の領域に見出すことができる。このように考えを巡らしてくると、建築の世界では、私たちの意識が〈機能〉・カタに比べて〈構造〉・カタチに偏してきたと言えよう。先に述べた写真の話はその状況証拠である。
 「空間」を気にし過ぎるばかりに「時間」を軽んじてしまう。建築にかかわる環境問題の主たる要因はここにあるのだと思う。時間と空間の双方を等しく取り上げ考える。これからの時代に在るべき建築観はその上に築かれていくのではないだろうか。
 人は身近な環境空間における光や熱・空気・湿気の振る舞いに応じた「感覚」を入力として、末梢と中枢から成る神経系を働かせて、温かい―寒い、涼しい―暑い、明るい―暗いなどを知覚・認識する。その結果、必要に応じて環境を改変するために、服を脱いだり着たり、窓を開けたり閉めたり、照明・暖冷房機器のスイッチを入れたり切ったりする。入力が「感覚」、出力が「行動」だ。以上の全体を「感覚―行動プロセス」と呼ぶが、これはまさに時間の流れの中に現われるカタにほかならない。
 温かさや涼しさ・明るさの知覚・認識がどのようにして発現するのか。人の感覚や知覚・意識のすべては神経系の働きなのだから、人間生物学(人の解剖学や生理学)的な視点に立って、人と建築環境との関係を眺め直す必要があるだろう。
図1 人の神経系の成り立ち 図2 人の感覚―行動プロセス 
 そこで、人の神経系の全体像(図1)を概観しつつ話を先に進めることにしよう。人は誰でも一個の受精卵細胞から始まって約60兆個の細胞からなる多細胞生物へと成長していく。神経系を構成する細胞群はまず、神経管とよばれる管状の構造を形成し、その後、その上部が膨らんでいき、そこが脳になり、残りが脊髄になる。脳と脊髄をまとめて「中枢神経系」といい、脳からは左右12対、脊髄からは左右33対の神経線維が体内に張り出す。
 神経線維の多くは体表に向かって張り出すが、一部は内臓にも張り出す。頭部を含めて体表に向かう一群の神経繊維を「体性神経系」、内臓に張り出す一群を「自律神経系」という。両者をまとめて「末梢神経系」と呼ぶ。体性神経系は「建築環境」につながり、自律神経系は内臓という「体内環境」につながっていると捉えることができる。
 感覚に始まり行動に至って身近な環境に変化が起きれば、それが新たな刺激になって改めて感覚が現われるので、感覚―行動プロセスは、図2に示すように、サイクルとして繰り返される。このサイクルの中心を通って、読者の目の方向に進む時間軸を取れば、サイクルは読者の方に向かって螺旋を描くことになる。螺旋の進行とともに創出される環境の質は、パッシブデザイン技術があるかないかで著しく異なってくる。
 パッシブデザイン技術が十分に施された建築では、遍4 在する身近4 な自然を生かすことができ、その結果として、然るべき「快」が創出される。一方、パッシブデザイン技術が不在の、あるいは不十分な建築では、偏4 在する身遠4 な自然の収奪・浪費によって「快」は現われるとしても、むしろ大きな「不快」を生じることを必然としてしまう。ここで言う「不快」とは、化石燃料の過度の使用や核燃料の使用による健康減退・環境汚染を指す。化石燃料ばかりか核燃料さえ使用することの結末が「不快」の極みを生じることは、2011年3月11日以来今なお進行中の原発人災が明らかにしつつあるとおりだ。
 適切なパッシブデザイン技術には、身近な自然の有り難さに気づける心や、ひいては他者を思いやれる心を、建築のつくり手・住まい手の双方に生じさせる力が潜在していると思う。人の在るべき感覚・行動を引き出す「時間デザイン」は、空間デザインとともに重要だと思う所以である。