インドの都市から考える
第5回

動物のいる都市空間

柳沢 究|名城大学理工学部建築学科 准教授
  やなぎさわ・きわむ| 1975 年横浜市生まれ。
2001 年京都大学大学院修了。
2003 年神戸芸術工科大学助手。
2008 年一級建築士事務所究建築研究室設立。
2012 年より現職。博士(工学)
作品:「斜庭の町家」「紫野の町家改修」「SAKAN Shell Structure」ほか。
著書:『京都げのむ』「生きている文化遺産と観光」「無有」ほか。
受賞:地域住宅計画賞、京都デザイン賞入選、雪のデザイン賞奨励賞、タキロン国際デザインコンペ2等ほか。
インドの都市には動物がいる
 小鳥や人に連れられたペットを除けば、日本の都市部において動物を見かける機会はきわめて少なくなった。そんな日本からインドを訪れて驚くことの一つは、都市に動物があふれていることである。実にさまざまな動物たちが人間と生活・空間を共にしている。
 インドの都市で出会う動物のツートップは、後で詳しく触れる牛と水牛である。山羊も多い。町外れでは豚やヒヨコをつれた鶏にも出くわす。暑い季節には死んだように寝転がる犬が目抜き通りに点々と並んでいる。猫は少ないが、電線を伝い屋根を渡り歩く猿は目立つ。家の窓を開けておくと猿に食べ物を盗られるので注意がいる。寺院では観光客相手のサービスを務めている象に出会う。ラクダは砂漠に近い地方都市では日常的な存在だ。
 インドの人々の動物に対する接し方を見ていると、必ずしも両手を挙げて動物を歓迎し可愛がっているわけではない。迷惑に感じ邪険に扱うことも少なくないようである。しかし、それでも彼らを積極的に排除したりコントロールしようという姿勢はほとんど見られず、自分たちの生活空間に他の動物がいることを当たり前に受け容れている。つい最近もムンバイの市民プールで泳ぐ猿が現れ話題になったが、利用者からは苦情もなく管理者側も猿を追い出さなかったという。根本には、命あるものは原則として平等な存在と考えるインド的な生命観があると言われる。人間の支配に従属する限りで存在を許される西洋的な動物=ペット観とは、大きく異なる。
牛と水牛 
 これらの動物の中でも牛は別格である。理由の一つはヒンドゥー教において牛が聖なる動物とされていることだ。シヴァ神の乗り物は白い牡牛であり、クリシュナ神は牛飼いの神である。周知のように牛肉は決して食べないが、ミルクやバターは重要な栄養源であり、その糞尿とあわせて宗教儀式にも欠かせない。糞はワラと混ぜて燃料となる。荷役としてもまだまだ現役である(写真1)。
 かたや水牛は悪魔の乗り物であり、どちらかと言えば穢れた動物とされるが、ミルクの質は水牛の方が上等であり値も高いため、飼育数は多い。食のタブーはなく、インドから「牛肉」として輸出される水牛の肉は、いまや世界の牛肉シェアの1/4を占める。
 インドにいる牛と水牛をあわせた数は3億頭超、世界一の牛大国である。都市に牛が多いのは、都市で牛を飼う搾乳業者(牛飼い)がいるからである。街区の奥の空地に(写真2)、あるいは住宅の小さな中庭や1階部分を利用して、数頭から十数頭の牛を飼っている。わざわざ都市で牛を飼うのは、農村部よりもミルクが高く売れるからである。かくしてインドの都市には牛(と水牛)がいる。高密な市街地を数多の牛たちが人や車と混じり悠々と歩いている様は、独特の都市風景といってよい(写真3)。
写真1:街の中でゴミ収集車をひく牛 写真2:牛小屋となった路地奥のスペース
 
写真3:人と牛が入り交じる街の
風景
写真4:ゴミ捨て場で食事をする牛(と犬)
牛の1日追跡調査
 ヴァーラーナシーではこのような牛がごく普通に、電柱ほどの密度で街中に暮らしている。綱などはつけていない。あるとき思い立って牛の生活を調査してみることにした。夜明け頃街頭で眠る牛の1頭を選び、日没まで追跡し、その居場所と行動を記録するという方法である(右図)。これまでに6頭の調査をした。分かったのは以下のようなことだ。
 牛によって決まった餌場が何カ所かあり、そこを巡回するのが生活の基本である。餌場は主にゴミ捨て場であり、残飯や食器となる植物の葉などを食べる(写真4)。定期的に餌をやる住民も多く、牛の方もそれを心得て玄関口を回っていく。そのほかに祠に供えられた花を食べたり、食生活はそれなりにバラエティーがある。
 一つの小さな驚きは、一見野良牛と思われた牛にも家があったことである。特に雌牛は毎日家に帰り餌をもらい搾乳される(写真5)。そしてそれが済むと再び街頭に出る。要は都市の中で放牧されているのである。対して雄牛はどうやら野良牛が多い。野良牛になるに至った経緯は分からないが、文献によれば、儀式として放牛される場合もあれば、年老いて労役を免除され解放されることもあるという。使役される雄牛の多くは去勢されるが、追跡中に発情し交尾行為に及んだ雄牛もいたから、彼は前者のケースかもしれない。
 大体30分ほど食事ツアーを行った後、道端に座り込み1~2時間の反芻と昼寝を行う。そして時折の排泄。糞は燃料として回収される。これを4 ~ 5セット繰り返して牛の1日は暮れる。行動範囲はおよそ100m四方。人間社会のコミュニティサイズと大体一致する、と言っては深読みだろうか。現代の都市にお
いて牛を基点とした見事な循環システム(人→廃棄物→牛→乳/糞→人)が成り立っている様子は、感動的ですらある。
 この調査は想像していた以上に過酷であった。牛がほとんど動かないからだ。数歩歩んでは1時間立ち止まる。大半の時間は睡眠か反芻に費やされる。はじめは退屈でたまらなかったが、動かない牛の側に座りその反芻する口元を何時間も見つめているうちに、なんだか自分が周囲の世界から遊離した別次元にトリップしていることに気がついた。牛は都市にいるからといって人間のように忙しくしない。自然の中で暮らすのと同じペースで暮らしている。インドの都市のすさまじい喧騒の渦中にあって、牛の周囲だけは緩やかな時間が流れていたのである。このことを体感できたことが、実は牛の追跡調査の最大の収穫である。
 
図:牛の1日行動記録
 インドでも、都市からこういった動物を締め出そうという動きはある。コルカタやムンバイの中心部で牛を見かけることはなくなった。デリーでも2010年に市街地整備の一環として、路上生活者などと共に牛も都市外へ追いやられた(2012年に訪れた際にはだいぶ戻っていた)。臭いや衛生面の問題が大きいだろう。交通への影響もある。しかし、世界の中に自分(人間)以外の存在が生きている、そのことを日常的に受けとめる機会が失われることは、人間にとって、それほど小さな問題ではないように思う。私事で恐縮だが、以前京都の古い町家に暮らしていたとき、天井裏をネズミや猫が走っていた。部屋の中にイタチがいたこともあれば、裏庭に蛇やたぬきも出た。田舎や少し昔なら普通だっただろうことがとても新鮮であった。もちろん気持ち悪さもあるが、一方で自分の住んでいる家が動物にとっても居場所になっていることに、少しの嬉しさをおぼえた。それらの動物たちが自分と同じ世界の住人であることを感じ、少し世界が広がった気がした。現代の住宅の天井裏や床下にネズミや蛇はいるだろうか。彼らを閉めだした住宅は、快適かもしれないが健全だろうか、という疑問は拭いきれない。
 インドの都市に暮らす動物たちにとって、人間の都市が暮らしよいものとは思えないけれど、今のところ何とかやっていけているようだ。動物がそれなりに生きていける都市というのは、人間にとってもたぶん悪くない住み心地なのではないかと思うが、どうだろうか。
 
写真5:道端での搾乳の様子