保存情報 第139回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 熊谷家  冨田正行|エム・プロダクツ
道路より見る 正面 平面図
■発掘者のコメント
 由来/熊谷家はかつて造り酒屋を営み、また山間部の庄屋を務めて現在二十代目を継いでいる古い家柄です。熊谷氏は家伝によると、初代熊谷玄潘が信濃国より土着して黒川を開いたといわれています。これを知る資料は皆無ですが、の地方で熊谷姓を名乗る一党の中にあって、代々庄屋を務めていたことや、格式ある屋敷構えや墓石の宝筺印塔などがあることからも、この地方を取り仕切っていた家柄だったとみてよいでしょう。熊谷氏宅は天竜川支流、大入川の中流の山間に位置しています。この場所は遠江の佐久間から大入川沿いに上がって津具、根羽へと、金越から新野峠に向かう中馬街道の脇道としての重要な道番所でもありました。
 三河山間部の代表的民家建築/当住宅の建築年代を推測資料としては、寛保4(1744)年以降の祈祷札が残されています。また屋敷の間取りや構造形式がこの地方に例がなく、むしろ静岡県浜松地方に見られる武家住宅の形式と類似することから、建造年代は18世紀前半と推測されています。屋敷構えは母屋を東向きに構え、門は屋敷中央の東に長屋門がありましたが、現在は棟門となっています。門の左に新倉・穀倉土蔵があり、
母屋の北に納屋倉庫があります。醸造業を営んでいた時代には多くの付属室を配していたと思われます。建造当初の建築様式や生活を知るに十分な保存が見られ、三河山間部における代表的な価値ある民家です。
 格式の高さを示す古六間取り/建造当初の間取り形式は、古六間取りの構えに広縁を回し、庭側に板張りのだいどころを張り出していたと見られます。柱間の寸法は7尺5寸(225cm)を単位としており、1間ごとに柱を入れた古い形式の建物です。古四間取りや古六間取りは一般の民家には見られず、格式ある武家住宅にみられる間取りであり、18世紀中期以前の建築ながら六間取りを採用していることからも、熊谷家の格式の高さがうかがえます。



所在地:愛知県北設楽郡豊根村上黒川字老平12
形式:入母屋茅葺き、酒屋(元庄屋・造酒屋)
規模:桁行13間半・梁間7間
年代:18世紀初期
国指定重要文化財
「建第1919号重要文化財」
登録有形文化財 神谷家住宅茶室(孤葊・柏露軒・腰掛待合・中潜門)  谷口 元|名古屋大学
   
中潜りから見た孤葊 孤葊内部 
■紹介者コメント
 名古屋大学建築学科卒業で、同期の神谷昇司氏(人間環境大学教授)が茶室研究の専門家である理由の一つは、代々続く名古屋裏千家の出身であることによる。学生時代から周辺の先生・学生たちを自邸に招いて茶道のたしなみを啓蒙していた。私も何度か茶室に案内され薫陶を受けていたにもかかわらず、郷土の文化的価値に気付かなかった。
 三河武士の流れを汲む神谷家が江戸期に大須で紙問を興し、明治維新後に茶道師範を務めた清寿院院主の村瀬家と姻戚となり、当地に居を構えた。戦災にも遭わず今日では周辺を高層ビルに囲まれ、外からの望見は困難である。孤葊(こあん)は西区幅下の日比野邸から、柏露軒(はくろけん)は中区大須の村瀬玄中邸からの移築であり、腰掛待合と中潜門(なかくぐりもん)は大正期に建設されたが、その後の曳家の際、東大寺や熱田神宮の古材が用いられている。正真正銘の数寄屋造りであり、芸どころ名古屋の証として誇りえる建築に間違いない。このような文化そのものを建築空間も含めて、中心市街地の中で末永く遺していくための、保存と継承・発展のための施策と法的整備を急がねばならない。

所在地:名古屋市中区新栄2-10-4
構造・建築面積・年代・登録番号:
孤葊/木造平屋建て、銅板葺き、10.2㎡、江戸時代後期・明治44(1911)年移築 23-0342
柏露軒/木造平屋建て、桟瓦葺き、77.7㎡、天保5(1834)年・明治44(1911)念移築 23-0341
腰掛待合/木造平屋建て、銅板葺き、1.3㎡、大正12(1923)年・平成7(1995)年曳家 23-0343
中潜門/木造平屋建て、桟瓦葺き、間口1.7m、大正末期から昭和初期・平成7(1995)年曳家 23-0344