保存情報 第138回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 蟹江の古民家・黒川邸  國分孝雄|国分設計
母屋 茶室
■発掘者のコメント
 蟹江・黒川邸。私の知人、元ウクライナ大使の大学教授黒川祐次氏の実家で木造2階建ての住宅である。戦国時代にあった蟹江城址の近くにあり、母屋とその付属屋と蔵からなっている。母屋、付属屋は江戸末期から明治元年までには建てられていたらしい。座敷など一部は昭和初期に手が加えられていると聞く。茶室・水屋は見事なものであり、2階への階段は当時の民家としてはモダンなものである。
 蔵は、名古屋の堀川端での材木商所有であったものを昭和初期に移築したものである。堀川端では当然、昭和初期以前には建てられていたはずであるから、案外古いものであるかもしれない。小屋裏などを綿密に調査すればいつの時代かは判明するのではないかと思う。
 現在、医師の長男、次男である黒川氏、長女はそれぞれ東京や海外などで生活されており、この実家にはご高齢のご母堂1人が住んでおられるが、手入れもなかなか行き届いている。また、ご母堂の佐屋町の実家は有形登録文化財に登録されており、古民家保存についてのご家族の理解度は高い。ちなみに、この民家は蟹江町の「古い町並みと集落・酒蔵」の最初に掲載されている。 このような木造の古民家は各地で次第に少なくなってきており、何らかの手立てを考え保存されることが望ましい。


所在地:愛知県海部郡蟹江町城2-161
構 造:木造2階建て
築 年:一部江戸後期
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 九々五集  谷村 茂|アール・アンド・エス設計工房
   
飛地境内社(龍神社・弁天社) 蝮ヶ池八幡宮 入口   蝮ヶ池八幡宮 入口
■発掘者のコメント
  地下鉄池下駅ができた頃に比べると、池下界隈の様子は随分と変わってきている。変わってないのは以前から気になっていた蝮ヶ池八幡宮と駅近くの小さな飛地境内社。蝮という名称も尋常ではないし、通りから続く石段も気になるものの、何となく行きそびれていた八幡様を訪ねることにした。
  訪れる前に、千種区役所で町名の由来を調べると、地下鉄池下駅から東にかけて蝮ヶ池という大池(縦180間、横60間の2haで、池下駅と厚生年金会館跡)があり、この池は末森城の真西、または、ここから真西に名古屋城があるので「真西が池」が転化したのか、とある。別の由来では、この池の周りは蝮が多かったので、「蝮ヶ池」と名付けられたともあった。事実、池下から大久手にかけては、とにかく池や沼が多かったようである。
  大正10年、千種耕地整理組合が発足し、翌年から池の埋め立てが始まったが、事故が相次いだため、池の底であった箇所(飛地境内社)に「龍神社と弁天社」を祀って工事安全を祈願しているようだ。私もかつて池下で住宅を設計した折に、あまりにもひどいボーリングデータに驚いたことがある。
  飛地境内社(龍神社と弁天社)の小さな社から北に数分歩くと、うっかりすると見逃すような幟が立った導入口と、それに続く数十段の石段を登りきった丘に「蝮ヶ池八幡宮本殿」がある。私が訪ねた3月中旬はまだ寒く、境内には訪れる人も少ないようで、住宅に囲まれた境内は大木に囲まれて静かであった。
  境内の由来には、今から300年以上前、徳川初期の寛永年間に造営されたとある。御祭神は第15代應神天皇で、昭和20年の空襲で社殿を消失したが、昭和26年に新たに社殿が落成し、盛大な遷座祭が行われている。昭和49年には伊勢神宮のご神木を造営用材として下賜されて末社社殿が造営されている。


所在地:名古屋市千種区向陽1-3-32
創建:寛永10年(1633年)
参考資料:名古屋市千種区役所町づくり推進係「千種区の町名の由来」
千種区高見学区連絡協議会「歴史」