保存情報 第136回
登録有形文化財 名古屋城 乃木倉庫  尾関利勝|地域計画建築研究所
南面・入り口 扉銅板 西面妻側・壁の剥離  妻開口・壁の剥離 北側屋根・雨樋の堕落(写真外)
■紹介者コメント 
 今、復元工事中の名古屋城本丸御殿で、今年5月29日に全体のおよそ1/3の玄関虎の間と表書院が部分公開される。四半世紀にわたる御殿再建の市民運動がやっと実現する。
 消失前の名古屋城が、その優美さゆえに城郭建築の国宝第一号だったことはあまり知られていない。名古屋城は1610年、徳川家康の命により築城を開始、本丸御殿は桂離宮古書院と同じ1615年に竣工した、およそ400年前の日本近世武家文化の代表格でもあった。
 その名古屋城は明治以後、波瀾万丈の歴史をたどる。明治7(1874)年、陸軍東京鎮台名古屋分室(後に名古屋鎮台)移管、後に二之丸御殿撤去、二之丸庭園を改造、下深井御庭は練兵場(現在の名城公園)となった。その後、宮内省所管となり名古屋離宮を経て、昭和5(1930)年に本丸以西が名古屋市に下賜されたが、1945年5月14日の名古屋大空襲で、惜しくも、天守(現天守は昭和34年再建)、本丸御殿など、その大半を消失した。この空襲にも耐えて残ったのが、明治初年(築年には諸説)に弾薬庫として建てられた煉瓦造漆喰塗の乃木倉庫である。深井丸西北墨櫓の手前、本丸御殿復元工事の資材加工場の西北にある。
 明治初期、陸軍少佐の乃木希典が名古屋鎮台にいたことから、乃木倉庫と呼ばれるようになったと言われ、戦時中には本丸御殿障壁画(現在重要文化財に指定)の一部が避難のためここに保管され、消失の難を免れた。これも名古屋城の歴史を物語る一こまである。
 乃木倉庫は名古屋では希少な煉瓦造倉庫で、面積は約89.3㎡、東西約12.3m、南北約8.6m、高さ約7.7m、桟瓦葺き切妻屋根、建物角は色漆喰(当初)で石積み風につくられた。建物南の入り口上部や床下にアーチ構造が見られ、入り口扉や開口部は銅板張りとされている。
 全体に形状は良く遺されているが、外壁漆喰の剥離、土台の軟石の風化、雨樋の脱落などが見られ、長期保存のためには早期の手入れが望まれる。


所在地:名古屋市中区本丸1-1
構造:煉瓦造平屋建て 桟瓦屋根 外壁漆喰塗
設計・施工とも 未確認
登録:第23-0005 1997年
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 永保寺庭園と虎渓山  鈴木祥司|アトリエ祥 建築設計
土岐川と荒々しい岩山 苔の中島(奥)と砂利の中島 山道にある数多くの石仏
■発掘者のコメント
 京都のある寺に訪れたときに「夢窓疎石の作庭ですよ」と案内の女性が説明してくれたが、京都の庭には珍しく荒々しさのある岩組みに池を配置した庭であった。ふと想い浮かべたのが永保寺の庭であった。
 折を見つけて永保寺を訪ねることができた。虎渓山を歩くと、そこには力強い土岐川と山の岩肌がせりあっていた。土岐川は荒々しい箇所と穏やかな箇所とあり、さまざまな表情をしている。永保寺の庭もやはり荒々しい岩の山肌がそそり立ち、優美な池に無際橋と中島が配置されていた。目を凝らすと二つの中島は苔の島と砂利の島になっており、池のほとりは苔が生えわたっている。池を一周すると、見る角度により表情が変化し実に優美な景観である。苔の種類もさまざまで木陰と光によって表情が移り変わり、このミニマムな世界も実に美しい。
 疎石は力強い自然と、優美で優しい自然を対比させた時空に禅の境地を置こうとしたのか。中国の聖地・廬山の風景に想いをはせ、若い頃は大自然の中の景勝地で修行し自然の偉大さに打たれ、納得し、一体感を求めた。修行の場として、渓流・滝・海岸など水の風景、座禅の場として洞窟や眺望の良い座禅石を好んだようだ。永保寺の座禅石も、庭園を見下ろし遠方の山々が見渡せるところにある。やがて人生後半で、南禅院、西芳寺(苔寺)、天龍寺、等持院などの庭園をつくり出したが、やはり滝や池、座禅石を配置し自然の再構築を試み、象徴性の高い庭園としている。
 一方、永保寺の山道には数多くの石仏が座って犬山の寂光院を思わせ、見学、参拝の人を楽しませているのが、この寺の魅力でもある。もう1度訪ねてみたいと思うのだが、また違った味わいを魅せてくれるのではないか。


山号・寺号:虎渓山永保寺
所在地:岐阜県多治見市虎渓山町1-40
交通:JR中央線多治見駅バス15分、中央道ICより車15分
創建年:正和2年(1313年)
開基:夢窓疎石(開創)、元翁本元(開山)