保存情報 第135回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 見晴台遺跡  神谷勇雄|設計室ユウアンドアベトウ
52次発掘調査部分を示す看板 B29の残骸 戦争時の住居跡
■紹介者コメント
 去年の夏の盛り35 ℃を超す暑さの中、見晴台遺跡第52次発掘調査に参加しました。
 見晴台遺跡は、笠寺台地と呼ばれている台地の先端部にあたりで、我々が工事中で出くわす遺跡が破壊されないよう、データを保存する緊急発掘ではなく、長い時間をかけて遺跡を詳細に調べる学術発掘にあたります。
 まだ周りが田んぼだった頃、笠寺公園として整備されることになったことを契機として、昭和39(1954)年に最初の発掘が行われました。それ以降、昨年まで続いてきています(今年も続く模様です)。昭和55(1980)年より市民の参加を募り発掘調査を行っています。発掘作業というと、筆や刷毛などを使った細かな作業と思いがちですが、実際はスコップと鍬を使うかなり粗い作業です。旧石器時代から中世にかけての遺物が見つかっており、茶碗のカケラなどが出てきたときには慎重になりワクワクします。
 見晴台遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての環濠集落(住居が、幅・深さ共に4mもある大きな濠に取り囲まれている)の跡です。直径が180mあり、この範囲内に200軒以上の竪穴住居が確認されています。環濠は、敵からの襲撃にそなえてムラ(集落)を守る設備と考えられています。第2次大戦中は基地として使用され、その跡も発見されました。以前には、高射砲陣地跡も見つかり、また昨年、くしくも終戦記念日の新聞に掲載されましたが、B29の残骸も発掘されました。戦後、GHQの目を逃れるため廃棄したとのことです。この時代も発掘の対象となっています。建物としては玉石(基礎)が残っていました。
 発掘作業は保存とはかけ離れた存在で、過去の遺構を壊し、その中にある遺物を取り出す作業です。建物に言い換えれば解体した梁や柱を置き換えるようなものです。
 7月18日から8月19日まで穴掘りや水汲みなどいろいろな作業を皆で行い、中学生も参加し、充実した夏を過ごしました。


見晴台遺跡(笠寺公園内):名古屋市南区見晴町47 (見晴台考古資料館 TEL 052-823-3200)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 旧半田大本営明治天皇仮御所  原眞佐実|原建築設計事務所
正面 下からの見上げ 座敷
■発掘者のコメント
 愛知県半田市の雁宿公園内に「ピアかりやど」として使われた施設がある。この建物は明治天皇の仮御所として使用されたのを移築したもので、もともとは東へ1.5㎞ほど離れた「小栗富次郎邸」内(当時の知多一番の富豪)にあった大本営御便殿跡の一部らしい。現在、小栗邸はなく、跡地は国盛「酒の文化館」となっていて、一般に公開されている。
 雁宿公園は標高40mほどの丘陵地(雁宿山)で衣浦を一望できる位置にあり、明治23(1891)年、陸海軍総合大演習が愛知県で行われた際に、明治天皇が戦況を視察された地である。行幸随伴したのは当時の閣僚のほとんどであったが、その中に当時の初代帝大総長で初代日本建築学会会長の渡辺洪基が含まれていたのは興味深い。
 小栗富次郎家はその後、破産、建物は中埜産業合名会社の手に渡ったが、昭和5(1930)年に半田市に寄付された。現在地に移築されたのは昭和8(1933)年で、しばらく半田市の結婚式場として活用されたが、昭和52(1977)年に廃止。その後改修を重ねてきたが、平成19(2007)年の耐震診断の結果、「倒壊する可能性大」。古い歴史ある建築物の多くがそうであるように、この建物も現在は使用されず、半田市(都市計画課)の管理下にあるものの廃家同然となっている。明治天皇の寝所となった部屋をオリジナルの形で残せるのか…? またこの建物を今後どのように活用していくのか…? 「ピアかりやど」として復活するのか…? 行政も含めて知恵の絞りどころである。 この北側には、以前は半田市民を潤していた旧貯水池もあるので、それを含めた活用を期待したいのだが…。
建築年代:明治20年建築、昭和8年移築、昭和57年改修、平成5年改修
構造・形式など:木造平屋建て日本瓦葺き、外壁下見板張り・モルタル仕上げ
建築面積:165.54㎡ 延床面積:165.54㎡          参考資料:「半田市誌」


所在地:愛知県半田市雁宿町3-204-1 雁宿公園内