大垣と水の文化
第5回

奥の細道むすびの地
芭蕉が愛した町大垣

車戸慎夫
(車戸建築事務所
   くるまど・しずお|1947年生まれ。
1974年名古屋大学工学部建築学科
大学院博士課程修了。1983年より
車戸建築事務所代表取締役社長。
JIA岐阜会員。受賞歴:1980年大垣市
立図書館(中部建築賞)、1987年揖斐川町
歴史民俗資料館(日本建築学会100周年記念東海賞)、1995
年西濃運輸竃{社社屋(第1回岐阜県21世紀ふるさとづくり
芸術賞優秀賞)、2001年中山道広重美術館(中部建築賞)
松尾芭蕉の紀行
 大垣は、松尾芭蕉の紀行文学「奥の細道」の「むすびの地」です。芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也(中略)、予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず」と、元禄2年(1689年)3月、江戸深川の芭蕉庵から奥羽の地へ旅立ちました。その矢立初めの句は「行く春や鳥啼魚の目は泪」です。その後、奥羽から北陸へ廻り、美濃までの旅を重ねて、大垣へ到着しています。
 芭蕉が門人近藤如行の家へ入ると、「したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふるがごとく、且悦び且いたはる、旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 蛤のふたみに別れ行秋ぞ」と、伊勢へ旅立ってゆきます。
 芭蕉は「奥の細道」の旅を「行く春や」で始め、「行く秋ぞ」で終えています。「奥の細道」の旅を漂泊の旅と表現しているので、各地を彷徨い歩いたように思われますが、実際には、春に江戸を出発し、秋に大垣で旅を終えるべく、計画的な紀行を行っています。これは貞享元年の「野ざらし紀行」も同様です。芭蕉は貞享元年(1684年)8月、江戸を「野ざらしを心に風のしむ身哉」と詠んで出発し、大垣へ到着して、旧友谷木因と再会すると、「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす、武蔵野出でし時、野ざらしを心におもひて旅立ければ 死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ」と、無事大垣へ到着できた安堵の思いを表しています。すなわち、「野ざらし」という、行き倒れを覚悟した旅であっても、当初から大垣で終えるつもりでいたのです。
 
「奥の細道 水の風景」
 @神橋(栃木・日光 大谷川) 
A乙字ヶ滝(福島 阿武隈川) B松島(宮城)
芭蕉来垣の理由
 大垣は芭蕉が何回も訪れることになる重要な地でした。芭蕉は野ざらし紀行の旅から約10年間に4度も大垣を来訪しています。
 その理由は、まず大垣の地の美しい自然が挙げられます。『芭蕉と岐阜・大垣』で獅子門道統大野国士氏が記しているように、美濃は飛山濃水と称され、揖斐川をはじめとする多くの川が流れ、遠山を背後にして平野が広がっています。そして、水門川や杭瀬川が流れ、自噴水も湧き出す水の都です。水は人を寛がせ憩わせます。大垣と水との深い縁は、木因が杭瀬川翁・観水軒を別号とし、ほかに如水・大川・千川・大舟など、水にちなんだ号の俳人が多いことでも感じられます。揖斐川水系の豊かな水の風景が、芭蕉をこの地に引き寄せたと言えるでしょう。
 第二に、大垣は東西交通の要衝にあり、旅に便利な土地でした。陸上は中山道や美濃路という整備された街道が通じ、水上は水門川の船町湊から水運によって各地へ旅することができました。芭蕉の美濃での足取りは、中山道・美濃路・北国街道・水門川・揖斐川に認められます。芭蕉は生地・伊賀上野、あるいは京・近江をたびたび訪れていますが、その都度、大垣を経由しています。
 第三に、大垣には芭蕉の門人・知友が多くいました。谷木因や近藤如行ら大垣の知人たちは、蕉風を理解し共鳴する人々でした。この人々は36句の連句を成立させうる力量を持ち、芭蕉の心を安んじさせる俳人たちでもありました。なかでも大垣藩士は江戸詰の際、深川の芭蕉庵で直接芭蕉の指導を受けていたので、藩士たちは芭蕉の来垣を待ち望んでいました。蕉門の藩士が芭蕉を大垣へ引き寄せたとも言えるのでしょう。
 第四に、俳諧師としての芭蕉は多くの門人を養成し、芭蕉が理想とする俳諧の世界の実現を目指すと共に、蕉門の発展をこの大垣の地でも図ったことでしょう。
 4回もの大垣来訪は、招きたいという門人と訪れたいという芭蕉の気持ちが結びついて実現したものと思われます。
 
 C水平な中山峠の分水領(山形)  D最上川(山形)  E親不知子不知(新潟)
芭蕉と木因そして大垣藩士
 芭蕉は来垣すると、前回記した船問屋を営む谷木因邸に泊まっています。木因は、800石の豊坂丸、700石の亀坂丸の持船を江戸往来の御用船とし、川船も15艘所有していました。芭蕉が奥の細道の旅を終えて、船町湊から水門川・揖斐川を桑名へ下ったのも谷家の持船でした。
 この木因は俳諧や和歌に優れ、俳諧は京の北村季吟の教えを受け、芭蕉とは同門でした。また、「好色一代男」「日本永代蔵」など浮世草子の執筆だけでなく、俳諧師としても著名な井原西鶴とも交際していました。芭蕉は天和2年(1682年)ころ、新しい試みとして、従来禁止されていた同字・同物の言葉を付句に用いようとしました。そのため木因に対して手紙で、「蒜の籬に鳶をながめて 鳶のゐる花の賤屋とよみにけり」と、「鳶」を重ねて付句を書き送っています。
 木因はこの芭蕉の新しい試みを理解し、機知に富んだ返書を認めて賛同したので、芭蕉は感嘆のあまり、大垣藩士中川濁子に宛てて、「杭瀬川之翁こそ予が思ふ所にたがはず、鳶の評、感会奇ニ候」と称美の言葉を伝えています。杭瀬川之翁とは木因のことです。木因と芭蕉の往復書簡は「鳶の巻」として伝来し、「奥の細道むすびの地記念館」に飾られています。
 元禄2年(1689年)9月、芭蕉は奥の細道の旅を終えると、大垣の俳人たちの見送りを受け、船町湊から舟に乗り、水門川から揖斐川を経て長島へと下ってゆきます。陸運(伊勢街道)は利用していません。水運は江戸時代の人々にとって身近で便利な交通手段でした。
 木因たちは別離の情を抑えがたく、芭蕉・曽良・路通らを木因の舟に乗せ、「如行其外連衆(別の)舟に乗りて三里ばかりしたひ候」と、水上を芭蕉に同行しています。この船中で4人が詠んだ連句があります。
 秋の暮行く先々の苫屋哉 木因 
 萩に寝ようか荻に寝ようか 芭蕉
 玉虫の顔かくされぬ月更て 路通
 柄灼ながらの水のうまさよ 曽良
 芭蕉の旅の無事を願う木因、萩の下にでも宿って旅を続けようとする芭蕉、芭蕉との同行の旅を終えた安堵感からか、揖斐川の水を柄杓で飲んで味わう曽良の心境がよく示されています。江戸時代の人々は、川の水を飲料水としていました。大垣でも宝暦・天明年間に、初めて掘り抜き井戸が掘られるまでは、井戸水ではなく川の水が日常的に飲料水とされていました。揖斐川水系の水は清らかで、さぞ美味かったことでしょう。
 また、江戸詰のとき中川濁子(知行700石)、宮崎荊口(100石)、高岡斜嶺(200石)、など多くの大垣藩士は、江戸深川芭蕉庵で芭蕉をはじめ、多くの門人と交流しています。中川濁子は赤穂義士の大石内蔵助とも親交がありました。芭蕉は来垣すると、これら門人宅を順次訪問しましたが、次席家老戸田如水の「室」の下屋敷にも表敬訪問しています。如水は初代藩主戸田氏鉄の孫で、禄高1,300石、風雅を好み、芭蕉とも句を詠みあっています。
芭蕉ゆかりの地 大垣
 芭蕉とかかわりの深い大垣は、昭和31年(1956年)、正覚寺の芭蕉木因遺跡と船町湊跡、昭和32年(1957年)に奥の細道むすびの地を市指定史跡としました。従来、「むすびの地」という言葉は用いられていませんでしたが、指定の機会に「むすびの地」を公称することで「芭蕉ゆかりの地」を顕現することになりました。
 昨年4月8日、市制90周年を記念して、「大垣市奥の細道むすびの地」記念館(筆者設計)が船町の谷木因邸跡地にオープンしました。
※参考文献、写真の出典は、連載の最後に記載させていただきます。