大垣と水の文化
第4回

水運としてのインフラストラクチャー
川湊の発展

車戸慎夫
(車戸建築事務所
   くるまど・しずお|1947年生まれ。
1974年名古屋大学工学部建築学科
大学院博士課程修了。1983年より
車戸建築事務所代表取締役社長。
JIA岐阜会員。受賞歴:1980年大垣市
立図書館(中部建築賞)、1987年揖斐川町
歴史民俗資料館(日本建築学会100周年記念東海賞)、1995
年西濃運輸竃{社社屋(第1回岐阜県21世紀ふるさとづくり
芸術賞優秀賞)、2001年中山道広重美術館(中部建築賞)
西美濃の水運
 江戸時代の陸運は、主として人馬によって行われ、中山道赤坂宿や美濃路大垣宿に設置された問屋場が、人や物資の輸送を担っていました。しかし、人馬で運べる輸送量は僅かでした。1人5貫目、1駄40貫目が輸送の基準で、問屋場には、中山道で50人・50疋、脇往還で25人・25疋の人馬しか常備されていません。
 大量の物資の輸送には、水運に頼らざるを得ませんでした。船による水上輸送は時間を要しますが、大量の物資を積載し、安価で確実に目的地に届けることができます。
 江戸時代に輸送された物資のうちで最も重要な品は年貢米です。年貢米は各村の郷蔵や庄屋の蔵に集められ、次に人馬で近くの川岸の土場や川湊へ運ばれ、水運が利用されました。
 大垣藩領の村も、大垣城内の柳大蔵や竹大蔵へ納入する年貢米以外は、揖斐川河口の太田御蔵から桑名湊を経由して江戸へ回漕し、換金して藩財政の歳入に充当されました。大垣藩は西美濃に10万石の領地を所有していましたが、江戸中期以降、幕府領約7万石も預かって支配するようになります。そのため、大垣に近い垂井・宮代などの大垣藩預かりとなった幕府領の村は、廻米を大垣船町湊まで人馬で付け出し、船問屋が桑名湊へ川下げしていました。
 他の幕府領の村も藩領の村も、揖斐川水系の川湊によって桑名湊と直結していました。
 西美濃は肥沃な穀倉地帯で、米以外にも菜種をはじめ多様な農産物が生産され、加えて林産物も豊富でした。そして西美濃の各村々は、海に面しない内陸でしたが、川湊を活用した水運によって、全国各地との交流・流通が可能でした。
 西美濃の川湊を揖斐川上流部から掲げると、主要なものに房島・岡島・揖斐・島・東野・神戸・落合・呂久・今尾・高須・太田と数多くあり、また揖斐川支流では、水門川筋の大垣船町、杭瀬川筋の赤坂・塩田・烏江・栗笠・船付、相川筋の垂井・表佐、牧田川筋の島田が要地でした。
 
水運としての水門川(昭和30年代) 昭和40年代まで残っていた「渡し場」 昭和初期の船町湊
大垣船町湊  
 船町湊は、大垣藩領と幕府領預り地、合計17万石の領地の「ゲートウェー」でした。大垣城の外堀を兼ねる水門川に、関ケ原合戦直後の慶長6年(1601年)に川湊が開設され、次第に町屋が成立し船町と称され、今日に至っています。船町湊の船問屋の3代目谷九太夫は松尾芭蕉と親交があり、俳人としても著名でした。寛永18年(1641年)には、壷屋庄太夫が船問屋を開始し、2軒の船問屋で水運を扱い幕末まで至っています。
 船問屋は大垣藩の寺社町奉行および船奉行の支配を受けていましたが、大垣藩は船改番所も設置して、船町湊に出入りの船の種類、大小、積荷に応じて運上を徴収していました。
 この船改番所が江戸中期の天明3年(1783年)に設置されたのは、船町湊を利用する船舶が多く、藩が船荷の直接支配を目論むほどに繁栄していたことを示すものです。
   
昭和30年代の船町湊  現在の船町湊
揖斐川三湊と船町湊の競合 
 船町湊は、揖斐川水系の水運の重要な位置を占め、川湊とはいえ桑名を経由して、江戸・大坂・名古屋などへの物資輸送を可能にし、西美濃の拠点として発展してゆきます。また、網の目のように広がっていた木曽三川とその支流を通じて、美濃各地と繋がり、大垣藩領以外の物資も輸送されてきました。加えて、船町湊は水運だけでなく、美濃路・中山道を通じて上方・北陸方面への中継基地にもなっていました。
 そのため近隣の川湊と競合し、特に烏江・栗笠・船付のいわゆる揖斐川三湊と船荷の輸送をめぐる争いが続きました。
 揖斐川三湊は尾張藩領です。尾張藩は元和7年(1621年)、木曽川・飛騨川・長良川沿岸の尾張藩領内の諸湊に対し、上方へ向かう船荷・筏は従来通り三湊に着けるように命じ、大垣藩領の大垣船町湊へ着けることを禁じました。
 しかし、寛文元年(1661年)、三湊が「今程大垣ニ舟数多ク御座候間、諸荷物大分大垣ヘ参ルベク候」と尾張藩に報告しているように、船町湊が扱う船荷は相変わらず多く、尾張藩はその後、たびたび美濃領内の尾張藩の川湊に、船町湊着船禁止令を出しますが、船町湊は三湊を引き離してますます隆盛し、西美濃の物資流通の重要な拠点であり続けました。 
明治以降の水運 
 道路が整備され、鉄道が明治16年(1883年)、敦賀・関ケ原間が開通し、17年(1884年)に大垣まで延長され、20年(1887年)には名古屋にまで通じました。道路・鉄道などの交通手段が発達しても、庶民にとって水運は身近な存在でした。そのため明治27年(1894年)、新たに揖斐川筋東横山、杭瀬川筋八幡、根尾川筋樽見、薮川筋稲富に「舟ヲ出スノ地」が設置されています。
 実は鉄道開通は水運との連携が重視されたものでした。明治15年(1882年)、当時の鉄道局長は、敦賀から大垣へ鉄道を通すことについて「大垣は濃尾の沃野を控え、水門川の便ありて、伊勢・四日市と相通ず、それ四日市は南海に面せる一良港にして数百tの船を繋泊せしむべし、故に延線大垣に及べば、此より四日市の間は水運の利をかりて運輸の便全く南北両海の間に疎通することを得」と建言しています。すなわち鉄道開通の目的は、船町湊と大垣駅を繋ぎ、揖斐川の水運を利用して、太平洋と日本海の南北交通を促進することにありました。明治から大正にかけて、庶民の生活実態は、水運と陸運が共存していたのです。 
船町湊の存流 
 大正時代に至っても、船町湊の取扱輸送総量は大垣駅鉄道輸送総量を上回るものでした。
 船町湊は大正7年(1918年)に至っても、セメント原石など5品目の発送量2万7080t、石炭など11品目の到着量9万9055t、綿花など69品目の到着量は5万8602tで、総量で12万t余であるのに対し、大垣駅の総量は11万t余と、船町湊の取り扱い量の方が多量でした。
 しかしながら、大正期から戦前まで存続した水運も、鉄道輸送、さらには道路網の整備によりトラック輸送が飛躍的に発展し、近代交通網にとって代えられましたが、全国規模の物流総合商社・西濃運輸がこの地にその発祥を見るのは、大垣が水運を活用した、交通の要衝であったことと深く関係しているように思われます。 揖斐川水系各地の川湊は、長く西美濃の文化・産業を支え、拠点として栄え、その繁栄の面影が今までも残っています。この貴重な歴史遺産も放置すれば、いつかは衰退し、人々から忘れ去られることでしょう。水運の歴史と河川の果たした役割や川湊の復元など、歴史資料の収集・整理や史跡保存を図ることは、「水の国」西美濃の重要なテーマとなるでしょう。 
※参考文献、写真の出典は、連載の最後に記載させていただきます。