大垣と水の文化
第3回

輪中の生活文化
水屋建築

車戸慎夫
(車戸建築事務所
   くるまど・しずお|1947年生まれ。
1974年名古屋大学工学部建築学科
大学院博士課程修了。1983年より
車戸建築事務所代表取締役社長。
JIA岐阜会員。受賞歴:1980年大垣市
立図書館(中部建築賞)、1987年揖斐川町
歴史民俗資料館(日本建築学会100周年記念東海賞)、1995
年西濃運輸竃{社社屋(第1回岐阜県21世紀ふるさとづくり
芸術賞優秀賞)、2001年中山道広重美術館(中部建築賞)
 前回、「揖斐川の力」で、「濃尾平野は土砂が堆積してできた洪積平野で、東側には硬い地盤の台地があるものの、木曽三川流域は低く高低差のほとんどない低湿地帯であり、そのため多量の降雨によって河川の堤防が決壊し、何度も洪水に見舞われる『洪水常襲地域』である」ことを記しました。
 揖斐川上流、旧徳山村では縄文時代から人々が生活を営み、その遺跡が点在しています。また下流の低地には弥生時代の遺跡も数多く見られます。古墳時代に入ると、権力者が出現し、県内最大の大垣市の昼飯大塚古墳はじめ、池田の願成寺古墳群など多くの古墳が今に残っています。
 壬申の乱でクローズアップされた西美濃は、垂井に国府が置かれ美濃国の中枢としてその機能を果たし、白鳳時代は寺院文化が栄え、多くの寺院跡が残り、奈良時代には国分寺・国分尼寺が建立されました。
 中世には天下分け目の決戦の舞台となり、戦国時代には、稲葉一鉄や竹中半兵衛などの武将が活躍し、また各地に鉄座が結成され人口に膾炙している美濃(関)の刀剣の基礎ともなっています。
 明治24年(1891年)の濃尾大震災と同29年(1896年)の大水害は、西美濃に甚大な被害をもたらし、治水と河川改修が緊急の課題となり、同45年(1912年)に完成した木曽三川分流工事によって水害は激減し、揖斐川下流域は豊かな穀倉地帯へと変わってゆきます。そして近年になると、揖斐川をはじめ木曽三川の伏流水を利水して近代産業が発展し、今日県下を代表する産業地帯を形成しています。
 幾度となく洪水に見舞われてきた人々は、それぞれの村単位で集落や耕地の周囲に堤防をめぐらして、水除けの囲堤を築いて水害を防いできました。これが「輪中」と呼ばれる囲堤です。
 囲堤の形成は、まず自然堤防をつないで上流部分を締め切る堤防がつくられます。これが尻無堤(しりなしつつみ)とか築捨堤(つきすてつつみ)と呼ばれるもので、これに加えて海水の逆流を防ぐために下流部分にも堤をつくると、輪状の堤に囲まれた島状の囲いとなります。この囲を繰り返すことにより、内側の堤は中堤となり大きな輪中が形成されてゆきます。
 このような囲堤の代表的なものが、濃尾平野の輪中集落であり、大垣周辺ばかりでなく、その範囲は岐阜市付近から伊勢湾岸までの広域にわたっています。
 輪中に建てられた民家建築に目を転じてみると、「水屋」が輪中を代表する防水建築として挙げられます。「水屋」は輪中地域特有の名称で、堤防によって防ぎきれない水害に備えてつくられた倉庫または避難施設、と言い換えることができます。
 洪水時の避難場所として、また米や日用必需品を蓄えておく倉庫として、母屋とは別棟で石積みの高い土台の上に建設されています。「水屋」は輪中地域の特色ある建物であり、輪中景観を代表するものです。また、水害の多い河川の流域では、水屋のような防水建築が見られますが、輪中地域の水屋のように、数多く集中する地域は全国的に珍しいものです。
 輪中の堤防が決壊し1度洪水が起きると、水が引くまでに数日から数週間の時間を要します。この非常時に避難生活を送る避難場所として、また生活用品や家具、先祖代々の家宝を避難させる場所が「水屋」です。しかし、水屋はすべての家に備えられていたわけではなく、主に地主階級に限られ、これも金銭的な理由から本家筋の家が中心でした。さらに財力のある農家では水屋をつくらず、屋敷全体の敷地を盛り土し、石積みで補強して洪水から逃れていました。
 輪中地域の水屋は、高く盛り上げられ石垣に覆われた基礎の上に建てられています。盛り土の高さは一般的には2 〜 3m程度で、高いものでは7 〜 8m、一番低いものでは石垣1段分の40pというものもあります。これらは、地形による水害被害の程度の差や家の階級、経済状況、洪水への関心度によって左右されます。
 基礎を高くするには大量の土砂が必要となります。田畑の土はもとより水屋の建つ屋敷の周囲に堀をつくり、その土を利用しています(大橋邸は周りが堀となっています。左ページの右端写真)。盛り土は石垣で補強しますが、さらに周囲に樹木を植え、その根によって盛り土を支持させると共に、洪水時の波浪を和らげ、屋敷の防風林としての機能をも担わせています。
 「水屋」は主に非常時の避難施設でしたが、日常生活を送る母屋に近接して、母屋の日当たりや風通しの妨げにならず、冬季の季節風である「伊吹おろし」から母屋を守る位置に、そして鬼門である母屋の東北の方角を避けて、建てられるのが一般的です。したがって敷地の東側から東南にかけて母屋が、北から北西にかけて「水屋」が建てられています。
 これら「水屋」を持つ家々の母屋は、鳥居建てと呼ばれ、三河から美濃にかけての農家の構造形式で建てられるのが一般的です。鳥居建ては上屋部で梁を2段に架けるのが特徴で、この部分が神社の鳥居に見立てられるためこの名が付けられました。
 また、輪中民家の母屋の特徴として、北面と南面の両方の同じ位置に大きな窓が設けられています。床上浸水した場合に水を通しやすくし、水の引きが早くなるように配慮した結果で、先人の知恵が生きています。
   
水屋建築 水屋建築のある集落  大橋邸
 このほかに輪中地域の水防の工夫として「上げ舟」と「上げ仏壇」が挙げられます。上げ舟は非常用の舟を常備して軒下、または土間の梁下に吊るしておくものです。母屋の入り口近くには柿の木などが植えられ、出水時にこの舟をつなぐ、「舟つなぎの木」として利用されました。
 上げ仏壇は母屋の仏壇を出水時に天井の板を外して、天井裏へ滑車を用いて吊り上げるものです。浄土真宗の盛んなこの地域では、各家に置かれている仏壇が真宗特有のもので立派で大型なため、水屋に運び込むのではなく、母屋の天井裏に上げる工夫がなされました。
 現在水屋は、一段高い所に建てられているため使用する際の不便さ、維持や管理のため修理などに多大な費用がかかってしまうこと、堤防が整備され洪水に見舞われることがほとんどなくなったことなどの理由から、新たに建設されることはごくまれで、古い民家の改築などにより減少するのに合わせてその数も激減しています。
 しかし、水屋が果たしてきた防災の意義が再認識され、先人の生活の知恵が見直されて、荒廃していた水屋を修復した家も少なくありません。大垣市釜笛地区では、多くの家が規模の大きい水屋を残し、修復も行われており、伝統的民家の景観保存の観点からも注目すべきで、地区全体の在り様など、今後我々がサポートしてゆく義務を感じています。
   
軒下の「上げ舟」 居間の天井の「上げ舟」  修復された水屋建築
※参考文献、写真の出典は、連載の最後に記載させていただきます。