大垣と水の文化
第2回
揖斐川の力
地理・地勢学的特徴

車戸慎夫
(車戸建築事務所
   くるまど・しずお|1947年生まれ。
1974年名古屋大学工学部建築学科
大学院博士課程修了。1983年より
車戸建築事務所代表取締役社長。
JIA岐阜会員。受賞歴:1980年大垣市
立図書館(中部建築賞)、1987年揖斐川町
歴史民俗資料館(日本建築学会100周年記念東海賞)、1995
年西濃運輸竃{社社屋(第1回岐阜県21世紀ふるさとづくり
芸術賞優秀賞)、2001年中山道広重美術館(中部建築賞)
 地域で設計活動をしていると、建物の設計やまちづくりへの提案などにおいて、学会誌や各種雑誌などからの日本・世界の幅広い情報収集もさることながら、地域の歴史・文化・風土を学ぶことの大切さに気付かされます。
 前回は「水の力」と題して、水の諸事象と水の大切さを記しました。「水都… 大垣」と謳いながらも、その実態は、日常的に使用している井戸水(大変質の高い地下水です)や「水まんじゅう」など和菓子に、その名残が残されているのが現状です。
 今回からは、大垣の姿を「水」を軸に語っていきます。
 大垣市街地の東に沿って流れる揖斐川は、長い年月をかけて肥沃な西美濃の平野を培い、縄文時代から続く地域の生活環境を形成してきました。また近世には中山道を横断し東海道(桑名)までを結ぶ、重要な交通(水運)のインフラストラクチャーとして機能していました。特に大垣は交通の要衝で、日本の東西文化のトランジットポイントでもありました。そして揖斐川の豊富な伏流水や自噴水は、生活環境に潤いを与え、貴重な淡水生物の宝庫と美しい田園風景を形成しています。
 この豊かな自然の恵みはその反面、水害などの脅威をもたらし、水との闘いは、世界的にも稀有な生活形態「輪中」を生み出しました。自然との共生の中で、暮らしと生活文化に生かされた知恵の数々は、風土の記憶の中に今でも生き続ける、先人たちの貴い犠牲の証でもあります。
 日本地図(図‐1)を見るとよく分かりますが、日本列島は中部地方で折れ、くびれをつくっています。またこのくびれがつくる地理・地勢的条件は、生物地理学的にも北方系の生物と南方系の生物の分岐域を形成し、南北両系の生物が共生する特徴的な地域をも形成しています。
 芭蕉は奥の細道紀行で、若狭から北国街道で伊吹山系と養老山系がつくる不破の関を越え大垣に、そして水門川、揖斐川を南下して桑名・伊勢神宮へと向かいました。このくびれを横断するルートは当時、本州の中で日本海側と太平洋側とを結ぶ最短のルートでもありました。
 
 自噴井戸 水害の脅威 
   
図−1 図−2
 養老断層の活動は、濃尾平野の西側・西南濃地方を沈降させ、東側・尾張丘陵を隆起させてきました。この濃尾造盆運動がつくる逆三角形の凹の盆地に、木曽三川が永い年月をかけて多量の土砂を堆積させてつくられたのが濃尾平野です。
 濃尾平野は西の養老山脈に向かって低くなっていきます。木曽三川の流路を見ると分かりますが(図‐2)、木曽川は木曽谷を出て愛知県犬山で西流し、やがて岐阜県笠松町で南下しはじめます。同様に長良川も中流部で西流しますが、岐阜市に至ると急に南流しはじめます。そして濃尾平野の西部・西南濃地方で、養老山脈に沿って、揖斐川と共に三川は並行して南下し、伊勢湾へと下っていきます。
 また、三川の河床は木曽川、長良川、揖斐川と西に向かって低くなっています。
 さらに木曽三川の上流山地は、西南日本の太平洋沿岸(高知・和歌山など)の多雨地域とならぶ多雨地域です。特に揖斐川は年平均降雨量(2,600o/年)も多く、加えて河川延長は121qと短く、降雨時には一気に河川が増水する結果となります。 このような悪条件が相乗して、西南濃地域は我が国有数の洪水常襲地域であると共に、低湿な土地をより低湿にしています。
 この洪水への対応として考え出されたのが「輪中」です。
 輪中は、洪水から耕地や集落を防御するために、その周囲に堤防をめぐらせたもので、この囲堤みが輪中と称されています。輪中は、ひとつの生活の単位として機能し、それぞれに水防共同体を形成し、日本のみならず、世界的にも稀有な囲堤形態です。そして水屋建築をはじめ、輪中ならではの生活文化を築き上げてきました。「輪中文化」は次回に記します。 
 揖斐川は、岐阜県揖斐川町の冠山(標高1,257m)に源を発し、深い山間渓谷を流下し、揖斐川町で濃尾平野に出ます。木曽川、長良川と同様に、平野部で広大な扇状地を形成し、また揖斐川水系である根尾川、牧田川、相川沿いにも同様の扇状地が形成されています。
 揖斐川の特性は、表層水としての流水ばかりでなく、伏流水や湧水としての「陸水」の量も顕著に多い土地柄を形成しています。特に、養老山脈の山麓では扇状地から平地に移行していく一帯に、多くの扇端泉があり、広範囲な湧水帯となっています。1960年代までは、豊富な一大湧水群があり、河の水源の多くを賄うほどでした。こうした扇状地の先端部で自然に湧き出す泉は“がま”(河間、蒲)と呼ばれ、地名にも残っています。この豊富な湧水域に生育する淡水生態系は多様で、環境省が認定するレッドリストにも記載されている希少な種がいくつも確認され、水生生物の豊富さを示しています。例えば、国の天然記念物であるイタセンパラやネコギギなどが生息し、また、元来北方系の魚であるハリヨ(県指定)も生息しているのは、この地域に豊かな湧水があるからにほかなりません。
 西美濃という“クニ”は、水環境の多様な機能を活用することによって「川国」をつくってきました。川は人の生活を支え、歴史・文化を培う、風土の重要な構成要素として存在してきたのです。
 表層水としての河川と伏流水としての地下水および湧水という、水の本来的な豊かさによって、人々はこの木曽三川流域に定着し集落をつくり、その豊かな水資源を活用して、稲作を中心に一大農業地帯をなし、さらに近年に至っては中京工業地帯の一角を興してきました。
 一方、この自然環境は洪水となって毎年のごとく、そこに住む人々の生命・財産を危険にさらし、水害を起こしてきました。人々は、河川を中心とした自然環境を、飲料水や農・工業用水など生命や生活の不可欠なものとして利水しながらも、同時にその流域に住むために洪水を回避する治水をしなければなりませんでした。 
 
 土地改良前の「堀田」の風景  美しい水辺空間
 この地域での生活は、河川を利水しつつ治水することに腐心してきた歴史ともいえます。すなわち、この一帯は「川の国」という特徴を典型的に示している地域であるといえます。
 しかしながら、近年まで湧水池やそれを水源とする湿地帯は、産業的な利用価値がないと判断され埋め立てられ、土地改良のたびごとに急速に陸化されてきました。その結果、水都の水都たる由縁自体が失われつつあり、もはや手遅れの一歩手前にあるといえます。こうした状況から脱却するために、水環境の保全・復元へのさまざまなアプローチのあり方を再確認し、利・活用しやすいように整理しておくことが不可欠です。今後、それは地域・まちづくりの重要なテーマとなってくるでしょう。 
「自噴井戸」…木曽川、長良川の伏流水は南下することなく西に向かって流れ、大垣周辺で揖斐川の伏流水と合流し、その水圧を高めて、伏流水(地下水)は自噴することになります。自噴は湧水・泉水と異なる、この地域特有の現象です。
※…参考文献、写真は連載の最後に記載させていただきます。