近代建築に寄り添ったステンドグラス
第4回

鈴木禎次作品のステンドグラス

金田美世|工房 我羅 主宰
  かねだ・みよ|工房 我羅(Glass art & design)主宰(1986 ~)。
名古屋造形大学非常勤講師。
PILCHUCK GLASS SCHOOL( 米)(1992&1995)。
メッセフランクフルト(独)国際見本市作品出展(2004)。
国立故宮博物院(台湾)講演(2011)。
現在、名古屋工業大学大学院 博士後期課程
 鈴木禎次はこの地方ではもっとも著名な近代建築設計家の1人だ。名古屋工業大学の前身、名古屋高等工業学校(以下名高工)の教授であった鈴木禎次、彼の建築にも木内真太郎がかかわったステンドグラス作品がある。
 以下は昨年2月、日本建築学会東海支部研究発表会「鈴木禎次における木内真太郎のステンドグラス」(共同研究者、清水隆宏先生、河田克博先生)で発表した内容だ。
・ 大正2年(1913) 三井銀行名古屋支店
・ 大正3年(1914) 三井銀行京都支店
・ 大正6年(1917) 桑名 旧諸戸清六邸(西諸戸邸)洋館
・ 大正12年(1923)松坂屋 名古屋店および大阪店
 うれしいことに、真太郎が残した木内家資料にあるデザイン画の一部は、東海地方の鈴木作品にも残されていた。
新旧の三井銀行
  名古屋支店
 木内は三井銀行建築の4つの支店に関係した。そのうち2支店が鈴木禎次設計の銀行だ。
 木内家資料には、「三井銀行名古屋支店」と記載された彩色デザイン画が3枚残されている。厚手和紙に彩色してあり、「三井銀行名古屋支店新築営業室中央圓天井ステインドグラス」(図1)(以下銀行名称省略)」「風除け仕切りステインドグラス」(図2)、「階段室階下スクリーン欄間ステインドグラス」(図3)と、それぞれ和紙の右上に墨書きされている。年月日、設計事務所などの記述はない。ご存じのように、近代建築の三井銀行名古屋支店は新旧2行(※以下、〔Ⅰ〕と〔Ⅱ〕とする)存在していた。
 〔Ⅰ〕は、大正2年、名古屋市中区、鈴木禎次の設計にて、担当は名高工の教え子の桃井保憲(第1回卒)と岡田泰一(第2回卒)。この銀行建築について飯田喜四郎先生(名古屋大学名誉教授)は、「洗練されたイオニア式オーダーで飾られた」と評しているが現存しない(鈴木禎次に関しては瀬口哲夫氏の著書に詳しい)。
 〔Ⅱ〕は、昭和10年、名古屋市中区錦、〔Ⅰ〕と同場所に曽根・中條建築事務所設計、竹中工務店施工の現在の銀行だ。木内のデザイン画が〔Ⅰ〕〔Ⅱ〕どちらの三井銀行名古屋支店であるかは不明であり、さっそく〔Ⅱ〕の現三井住友銀行名古屋支店を訪れた。まず1階「営業室中央圓天井」を探すが、それらしきものはない。「風除室仕切り」もプロポーションが違う。地下金庫室へと続く螺旋階段を下りる。ここではないと確信しながら横長に描かれている「階段室階下スクリーン欄間」を探す。やはりない。デザイン画は大正2年の〔Ⅰ〕のための作画と分かる。3枚の図は詳細図を兼ねており、硝子寸法と納まり寸法が入っている。ステンドグラスは制作されたのであろう。「営業室中央圓天井ステインドグラス」は半径11尺7寸とある、直径約7m。客溜りから見える円形の天井はさぞ華麗であったに違いない。同銀行は短い期間の建物使用であった。〔Ⅰ〕から〔Ⅱ〕へ、なぜ新しく建て替えられたのだろう。それらの資料は今のところないようだ。
図1 三井銀行名古屋支店新築営業室中央圓天井ステインドグラス」 図2 同銀行風除け仕切りステインドグラス 図3 同銀行階段室階下スクリーン欄間ステインドグラス
旧三井銀行京都支店
 京都市四条烏丸角に三井銀行京都支店はあった。昭和57年に取り壊され、新しいビルの前面にほんの一部が残された。取り壊し前の建物の記述が『源流をたずねて』(藤木工務店発行)にある。上棟の際の棟札に書かれたものを抜粋。社長・三井高保、常務取締役・早川千吉郎、設計監督・鈴木禎次、本館請負人・竹中藤右衛門、付属舎請負人・山本鑑之進、製図係・星野則保などの名前が棟札(図4)にぎっしり書かれている。常務取締役の早川千吉郎は山本鑑之進、宇野澤辰雄の義兄にあたり後の満鉄総裁。木内が製作工場を受け繋いでいった流れの1つでもある。製図係・星野は鈴木禎次の教え子で、名高工第1回卒業生(1910年)。木内とのかかわりがこの後にも続いていく。三井を表す3本線が中心模様のステンドグラスは、貴賓室に嵌め込まれていた。    
図4 三井銀行京都支店棟札『源流をたずねて』 
松坂屋
 どのような場所にどんなステンドグラスがあったのか、デザイン資料はない。この時代、百貨店は日本の文化の最前線であり、外国文化を取り込む窓口でもあった。当時の松坂屋名古屋店について『松坂屋百年史』によると、大正14年は名古屋店の新店舗開店の年。「いとう呉服店」から「松坂屋」に全店の商号を統一したとき。例えばまだ下足を預かる下足番が置かれていた。前年に銀座店が「土足入場」にしたのを機会に、名古屋店も土足で買い物ができるようにし、庶民にも入りやすくしたとある。鈴木禎次設計、松坂屋名古屋店は百貨店事業の飛躍のシンボル的な建築でもあった。
 木内家資料から三越、高島屋、十合(そごう)各百貨店のデザイン資料は見つかっている。松坂屋に関する文字資料は、「宇野澤組ステインド硝子製作所関西出張所 金銭出納帳」に「大正12年1月30日 本月26日名古屋工事ニ関シ名古屋出張旅費 十五円二十九銭 製作品附帯費 現金」などのほかに4件の記載が確認でき、木内は名古屋店、大阪店にかかわったことが分かる。
旧諸戸清六邸(西諸戸邸) 
  混同される六華苑(東諸戸邸)は、洋館部分がジョサイア・コンドルの設計により大正2年に初代清六の地内に建設。当時は庭続きであった西諸戸邸は、2002年に本邸、大門、御殿、玉突場が国の重要文化財に、庭園が国の名勝に指定された(一般公開日あり)。本邸洋室の設計は鈴木禎次、製図係は星野則保とされている。
 本邸洋室は、2か所にステンドグラスの窓がある。同邸の直接的な資料はない。木内家資料「小口金銭出納帳」に大正4年5月、名古屋出張に際して「鈴木氏進物代」が計上されている。進物を出すのは取引上重要な建築家のみで、同資料では数名しかいない。設計の星野則保の名前は、前記、三井銀行京都支店にもあった。大正6年当時、名古屋にはステンドグラス製作工場はなく、木内と鈴木の一連のかかわりから木内の制作と考えられる。なお、木内家資料から新たに鈴木禎次に関する実物大和紙デザイン画5枚が見つかり、現在調査中。
 ステンドグラスメモ
❖強度を持たせるデザイン
 鉛線(鉛桟)の交差がTの字になるラインを引くように心がける。
❖補強
 一定の間隔で力骨(現在は真鍮の角バー、3×7mm、3×10mmなど)を両端の抑え縁に入る寸法にして、ステンドグラスの外枠まで渡す(両端を平らにつぶす)。絵の邪魔にならぬよう鉛線とバーを半田で溶着(写真参照)。 
   
明治29年岩崎邸(コンドル設計)、宇野澤辰雄制作(推測)。左は、一部をアップにした写真