保存情報 第125回
登録有形文化財 どうだん(満天星)亭(旧浅井家住宅離れ) 原眞佐実/原建築設計事務所
 
外観 門  庭園 内部
■紹介者コメント
 愛知県尾張旭市の県道61号名古屋瀬戸線(瀬戸街道)から北へ5分ほど坂道を上ったところに「どうだん(満天星)亭(旧浅井家住宅離れ)」はある。名前の由来は庭に咲く満天星躑躅(ドウダンツツジ)らしいが、毎年春にはドウダンツツジとサツキの花が咲きほこり、秋にはカエデとドウダンツツジの紅葉が苔庭の緑とあいまって何ともいえない美しさを醸し出す。
 もともとこの建物は、第二次世界大戦頃は陶磁器の取り扱い高で全国一を占めたこともあるといわれる、名古屋市東区にあった貿易商「浅井産業合名会社」の経営者浅井竹五郎氏の住宅「玄々荘」の離れとして、昭和17(1942)年に建てられた。浅井家は若き日の加藤唐九郎など若い陶芸家を後援していたことでも知られている。
 現在は岐阜県飛騨市になっている旧吉城郡坂下町にあった、享保8(1723)年建築の合掌造り3階建て民家「荒木家住宅」を2階建てに改造移築し、山荘風近代数奇屋建築にしたものである。建物の東側台所部分と2階建て離れは、昭和42(1967)年に、どうだん亭を入手した大岩憲正氏が住まいとするために、現在の場所より西側にあった建物を曳き家をして、増築および新築をしたものとのこと。
 浅井家所有の頃は南隣にある天理教名古屋大教会一帯も同一敷地に含まれていたらしく、その名残りは現存する母屋(現在は天理教の施設)に見てとることができる。当時の数寄者の間には、飛騨の古民家を山荘風離れとして移築して持つのが流行っていたのか、同じ頃「又兵衛(旧坂上家住宅)」も昭和11(1936)年、名古屋に移築されているのもおもしろい。
 なお現在の屋根は切妻屋根桟瓦葺き、下屋部分はカラーベスト葺きであるが、旧状は茅葺きであったと思われる。
 平成9(1997)年に当時の持ち主より尾張旭市に寄付され、平成11(1999)年より市の文化施設として改修の後、茶会や句会などに活用されている。昭和42年(1967)の増改築の際には庭園がつくられ、謡曲「紅葉狩」をモチーフに「幸福(松竹梅)」の中で「鶴(飛び石と枯れ池)」と「亀(築山)」が群れ飛ぶ様子が表現されている。

所在地:愛知県尾張旭市霞ヶ丘町南298
登録:2008年5月7日 23-0303
構造及び形式など:木造2階建て桟瓦葺き 
建築面積89㎡
参考資料:尾張旭市教育委員会『どうだん亭(満天星亭)』
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 吹上八幡社 山田正博/建築計画工房
本殿 拝殿 末社と神木
■発掘者のコメント
 吹上八幡社は地元では八幡さんと呼ばれ、激しく車の行き交う若宮大通りの北に粛として佇んでいる。戦前は氏子により祭りの際に舞台を設え、芝居が上演されていた。戦後には白い幕を張って映画が上映され、風になびく映像に住民たちは目を凝らしていた。相撲、三角ベース、木登りなど子どものかっこうの遊び場でもあった。
 現在は氏子の数は半減し、訪れる人も少なくなったが、鎮守の森の趣きを今も残す境内で、祭りの日には総代さんによる夜店が立ち、子どもたちの歓声が聞こえる。大晦日の夜、年の明けるのを待ち参拝の後、ドンド焼きの火で暖をとる多くの崇敬者の姿が見られる。
 「吹上」の地名の由来は、社伝によれば、往古は入り海の末端の高台にして、清泉湧き出で此の地を古井と称した、とのこと。「弘治年間(1555 ~ 1558 年)、応神天皇の神霊、小船に御して、此処の波打ち際に漂着し給う。“神、吹き上げ給う里”として以後、“吹上の里”といい、天皇との関わりふかきを奉謝し産土神として祭る。明治五年十月、村社に列す」とある。
 昨年、名古屋工業大学建築・デザイン工学科保存システム学のフィールドワークにより調査が行われ、改築の痕や修復箇所が見られた。本殿は一間社流造銅版葺き、幣殿と本殿は庇を接し、渡りから二間間口・二間半奥行の拝殿へと繋がる。本殿・幣殿・拝殿と連なる社殿は築130 年となり、特に拝殿の老朽化が著しい。社叢も含め、境内全体の保存、拝殿の耐震化をいかに施すか考慮すべき時期に至っている。
 八幡さんの東には郡道が南北に通り、懐かしさを覚える長屋が軒を連ねている。

所在地:名古屋市千種区千種2-18-14