近代建築に寄り添ったステンドグラス
第1回

いにしえの輝きに誘われて

金田美世|工房 我羅 主宰
かねだ・みよ|工房 我羅(Glass art & design)主宰(1986 ~)。
名古屋造形大学非常勤講師。
PILCHUCK GLASS SCHOOL( 米)(1992&1995)。
メッセフランクフルト(独)国際見本市作品出展(2004)。
国立故宮博物院(台湾)講演(2011)。
現在、名古屋工業大学大学院 博士課程後期
   
愛知万博 「長久手ワーテルロー館」グラスアート by miyo(シルクスクリーン焼付・サンドブラスト)   浜松フラワーパーク温室 by miyo (ステンドグラス&
ヒュージングパネル)
   古(いにしえ)の言葉である玻璃(はり)と瑠璃(るり)。たまさか文章の中で出会う。何気なく「それって、ガラスの意味でしょ」とだけ思っていた。ガラスの仕事に長く就いているのに。
 今の仕事は、建築物への現代アートの取り込み。ステンドグラスのデザイン、制作を含め、ヒュージング(板ガラス、粉ガラスを溶かす技法)と焼き付け技法などを使った立体作品のグラスアート制作である。
 2000年秋、日本建築学会東海支部歴史部会主催「親と子のステンドグラス教室」が、博物館明治村帝国ホテルの2階で行われた。講師を依頼され、改めて、同ホテル設計者フランク・ロイド・ライトを間近に感じ、近代建築に興味を持つきっかけとなった。
 2001年からは、旧帝国ホテルの傷んでいたステンドグラスの修復に関わる。その後、聖ザビエル天守堂(通称、ザビエル教会)の明治村建造物移築工事報告書に関する資料収集に参加し、ステンドグラス修復もした。明治村を通してのそれらの体験は、強烈な私へのメッセージとなり、古への誘いとなった。当時、博物館明治村館長の飯田喜四郎先生、西尾建築部長には大変多くの教えを受けた。
 2005年インテリア学会大会論文は「聖ザビエル天守堂ステンドグラス-白色ペイントで描かれた華麗な二面性紋様-」で、飯田先生、西尾氏と共同執筆し発表。現在、私のライフワークである近代建築ステンドグラス調査、研究に確実に繋がってきたと思っている。
 辞書に、玻璃は水晶、瑠璃は青玉(ラピスラリズ)を意味するとあり、「ガラス」の意とともに各々七宝の一つであり、「色玉」の意があることを知った。雑学が増えていくのも、資料の中でもがいているときには大変嬉しい。 
ステンドグラス制作のはじまり 
 明治19(1886)年、河合浩蔵、J・コンドルらに引率されドイツに留学し、ステンドグラス技術とガラスエッチング(フッ化水素酸、硫酸の混合液で表面を溶かして模様を描く、腐食硝子の意)技法を学んだ山本(宇野澤)辰雄がいた。明治23(1890)年に帰国し、日本で初めてのステンド硝子製作工場を設立。当時から今に至るまで製作技法に大きな変化はない。
 明治43(1910)年、小川三知が、アメリカでステンド硝子技術を習得し帰国。東京でステンドグラス製作を始めた。
 そのころ木内真太郎(1880〜1968)は大阪、住友臨時建築部で住友の図書館(現在の大阪府立中之島図書館)の現場係として働いていた。上司であった野口孫市からステンドグラスの仕事を勧められ、明治40(1907)年、技術の習得のため、縁のあった山本鑑之進(辰野金吾の門下生、宇野澤辰雄の兄)の知遇を得て、東京の宇野澤辰雄の「ステンド硝子工場」へ。辰雄の病没後、大正元(1912)年、辰雄の後見役であった鑑之進の資金援助のもと、「ステンド硝子工場」の職人であった別府七郎と「宇野澤組スティンド硝子製作所」を設立。
 大正3(1914)年末には、東京に続き大阪出張所も増設し、経営に携わった。コンドルをはじめ綺羅星のごとく現れた建築家と出会い、数えきれないほどのステンドグラスのデザイン、制作をした。
 明治後期から大正、昭和の時代を経た貴重な資料は、宇野澤辰雄の誇りを繋ぐため、真太郎によって関東大震災、第二次大戦の大禍を乗りきり、その後は木内家の家族により守られた。「宇野澤組スティンド硝子製作所」は大正11(1922)年、玲光社と名称変更したが、その理由は分かっていない。  
木内家資料、真太郎のデザイン画集より。縦にも横にも2重に美濃和紙のデザイン画がはってある 
つながる歴史 
 今から20数年前、私は初めて生駒の山裾に住居と並びに建っている2階建ての玲光社の工房を訪れた。工房我羅との共同製作の打ち合わせが目的だった。
 1階はこじんまりとした製作工房。今は亡き2代目の木内保英氏が作業台に向かい、真太郎から受け継いだ精神、道具、硝子、技術など、私の知り得ない貴重な話を、打ち合わせの合間に穏やかに語ってくれた。真太郎のデザイン、原画などが木内家に多く残されていること、コンドル、辰野金吾に真太郎が声をかけてもらっていたことなど。   
 真太郎が昭和初期に購入した現住所の工房は、玲光社の材料、資料などの疎開先でもあった。真太郎存命中は、今より広い庭に畑もあり、作業のできる土間付きの大きな家だった。しかし逝去後、相続のため文字資料などは段ボールにまとめられ、家人にも全容が分からぬまま敷地内の片隅の倉庫に収納された。デザイン、原画などはまとめて保英氏が管理。時が過ぎ、同氏が急逝し、同居の母、富佐江さん(真太郎の一人娘)もその1年後に亡くなり、歴史の証人はいなくなった。
 その後、家人は保英氏と仕事上の協力関係にあった私を信頼し、現在の工房内および住居棟に散逸していた木内家全資料の調査、研究を託した。
 玲光社の工房の2階は1階と同じでひと間で、書庫兼物置になっている。製図、撮影も兼ねる大きめのテーブルが入口近くに1台、私はここで整理作業をする。もう何回この部屋に通ったであろうか。階下の工房では3代目英樹氏(保英氏の3男)が制作、修復などの仕事をしている。
 エアコンが設置されていない書庫兼物置。夏の暑い時期を避けて来るよう家人は言う。デザイン整理に疲れると立ち上がり、室内をぐるりと見回し、真太郎の何かを求め探す。
 西日を避けてカーテンを閉めきった窓の下には、段ボール箱が無造作に積み上げられている。もう何度も上から下までひっくり返し、見直しをした。本棚の本と本の間も、小さな箱の中身も。資料がいろいろ出てきたが、まだ何かが出てくる予感がする。途中から、保英氏の妻カオルさんも、木内家ルーツの洗い出しに居ても立ってもいられなくなったのか、私の傍らで図面の整理を手伝う。
 あるとき、明らかに真太郎関係ではないダンボール箱を積み上げた一角に目が行った。一番下に時代物かと見紛う小ぶりの古い木箱。古陶器でも入っているのかと思い、カオルさんに開ける許可をもらう。カオルさんは「私、この箱は知らない、中を見たことがない」と。
 あった! 出てきた! 真太郎がこの箱に入れ大事に疎開させたのであろう。大ぶりの革背表紙に金文字で「原簿」「仕訳日記簿」と刻印がされた2冊と金銭出納帳1部。大正初期の帳簿だ。透明ビニールに幾重にも包まれていた。触ると、ぼろぼろと革の背がはがれてくるので、丁寧にスキャンをして現物は保管をする。真太郎のデザイン、原画などは、すでに新しく見つかったものを含め、少しずつ整理が進んではいたが、この資料から、詳細な照合ができることを確信した。
 コンドル、ガーディナー、清水萬之助。辰野片岡事務所、鈴木禎次、竹中工務店、大林組などの名が、デザイン画や帳簿、日誌などと木内家資料からは出ているが、ほとんどが「点」の記録である。やっと「線」で繋がりはじめた。  
 
「宇野澤組スティンド硝子製作所」の日誌や帳簿、顧客名簿など