解体/ 集合住宅モダニズム
           第2回

Quartier des Etats-Unis | Wangsa Maju

村上 心
(椙山女学園大学 教授)
むらかみ しん|
1960年大阪生まれ。
1992年東京大学大学院博士課程満了、椙山女学園大学講師・助教授・准教授を経て
2007年より同大学生活科学部生活環境デザイン学科教授。
1997年オランダTUDelft OBOM 研究所客員研究員。
博士(工学)、写真家・ハイパースペースクリエータ。
著書に『The Grand Tour- 世界の建築風景』『建築再生の進め方』、
訳書に『サステイナブル集合住宅』など。
2008年度都市住宅学会著作賞、2007年日本ディスプレイ大賞入選など。
リヨンの街
 2010年秋、2011年春と、短い間に2度も仏・リヨンの街を訪れる機会を得た。リヨンは、中世以降絹織物取引の中心地として盛え、産業革命以降は欧州最大の繊維工業都市であった。現在は、パリに次ぐ仏第2の人口を有しており、ポール・ボキューズ等の有名レストランや、ローマ時代に築かれた旧市街地、中世に盛えた新市街地、現代の名建築が散在する東地区などを訪れる観光客も多い。    
 リヨンの旧市街(ローマ時代の町並み)のcafé にて Quartier des Etats-Unis の住棟エントランス改良
カルチェ・デ・ゼタジュニ Quartier des Etats-Unis トニー・ガルニエ(Tony Garnier) Lyon | France
 2度の訪問時に2度共訪れた唯一の場所は、トニー・ガルニエ都市博物館(Museum Urbain Tony Garnier)であった。トニー・ガルニエは、1869年8月13日リヨンのクロワ・ルス地区に生まれ、1886年から89年までリヨンのエコール・デ・ボザールで建築を学んだ。当時、リヨンの建築家は世襲ばかりで、一般労働者家庭のガルニエにとって建築家への道は遠いものであった。しかし、ガルニエの成績は優秀で、数々のコンペで賞を取った後、20歳でパリへ向かい、翌年、パリのエコール・デ・ボザールに入学する。10年後、年齢制限ぎりぎりで念願のローマ賞(受賞するとローマを訪れる旅費が支給される)を受賞し、1899年終わりからローマのヴィラ・メディチで生活を始める。ガルニエは、ローマで、多くの図面やスケッチと共に「工業都市(Une cite industrielle Etude pour laconstruction des villes)の164枚の原図を描き、1918年出版された。このガルニエの都市計画は、都市の全体的な構造への関心を基に、工場労働者を中心とした理想都市を構想したものである。都市の機能を地域的に分割・配置し、そこから最大の効率と快適性をもたらそうとするもので、公共地区と住居地区に分けられる。社会主義的思想基盤に立ち、土地や建物は自治体が所有し、箱型の住居が建ち並ぶ住居地区へは、工業・交通の侵入を制限している。以降、この提案はモダニズムの基礎となった。1920年には「リヨン市大建設事業」を発表・出版し、数々の計画案と作品を残している。
 トニー・ガルニエ都市博物館はガルニエが設計した集合住宅群の妻壁25面に壁画を描き、彼の足跡と思想を伝えるオマージュである。オリジナルの集合住宅群は、1917年~34年の間に建設された、ガルニエの理想的「工業都市」を実現した6階建ての公的住宅である。1985年に再生プログラムが始まるまで、所有者のOPAC Le Grand Lyonはまったくと言っていいほど手入れをせず、結果として、壁面は黒く汚れ、エレベータがないことが高齢者の負荷になる、住民負担による浴室の設置が強いられる、など、住民達の不満が高まっていた。再生プログラム進行中に実行された再生は、エントランスの改良、エレベータの設置、外壁の改修、開口部の改良などであった。これは、初期モダニズム鉄筋コンクリート造集合住宅に対する典型的再生内容である。壁画による博物館という画期的アイディアは、1988年の時点で生まれ、再生プログラムの一部として取り入れられて、世界中からの観光客を集めるなどの大成功を収めている。
   
トニー・ガルニエ都市博物館  ガルニエの「工業都市」を描いた壁画 ガルニエ設計のgrossen halle の完成時を描いた壁画。中央手前の小さな男がトニー・ガルニエ 
ワングサ・マジュWangsa Maju 設計者不明 Kuala Lumpur | Malaysia 
 さて、欧州で生まれた箱型の鉄筋コンクリート造集合住宅を、世界各国が「輸入」した結果は、どうなったのであろうか。アジアの熱帯に位置するマレーシアの例をみてみよう。
 マレーシアの集合住宅では、「居住者による自主的な住戸改造」が日常的に行われている。これは、地域性に根差した多様な居住者の住要求と、供給された鉄筋コンクリート造の「ハコ」との乖離を端的に示している。ワングサ・マジュ地区は、マレーシア経済の中心である首都クアラルンプル郊外の大規模集合住宅団地である。この団地は、低層の戸建て住宅から中・高層の集合住宅まで、さまざまな形式の住宅が複合して存在しており、タウンセンターや大型ショッピングモールもある。
 筆者は団地内初期(1980年前後)の開発事例である、中層3住棟を対象に、2009年に実地調査を行った。住戸改造は日常的に行われており、その有無には、居住年数や家族人数、所有形態や収入などが関連している。開口部の庇の取り付けはほぼ定常化されており、オリジナルの集合住宅型式が、日差しが強く多雨の季節があるという、マレーシア特有の気候条件を考慮していなかったことを示している。外部への増築は、腰壁や柵を用いて、半屋外の開放的な風が通る空間をつくる事例が多く見られ、壁面の構築によって完全に室内化された事例においても、庇を伸ばして物干し用の空間を作る、などの計画がみられる。団地居住者の生活は、バルコニーや増築部など、住戸内部に留まらず、半屋外に展開されている。住戸内での生活スタイルは、椅子座と床座の混合が観察された。
 以上のように元来、木造に比して「再生しにくい」鉄筋コンクリート造の建物を、マレーシアではかなり「自由に」変更を加えている傾向がみられる。これらの再生行為のなかには、定められた合意形成ルールを「無視」して行われているものも多く存在している。筆者は、この「自由さ」がアジア型の合意形成ルール/再生ルールのヒントになるかもしれないと考えている。
     
Wangsa Maju 団地 勝手に?増築された住戸  住戸の内部の様子