保存情報 第118回
登録有形文化財 真清田神社 本殿・渡殿 谷  進/タクト建築工房
 
本殿および北門・透塀。本殿は三間社流造 祭文殿。手前は拝殿
■紹介者のコメント
 真清田(ますみだ)神社は、尾張国の一宮として古くから庶民に親しまれるとともに人々の心の拠り所でもある。数多くある一の宮のなかで市の名称としているのは当地のみであり、一宮市章は真清田神社の五鈴鏡をかたどったものである。
 戦前の市政は神社と深く関わりを保っていた。終戦間際の昭和20(1945)年7 月28 日、一宮市の中心部は大空襲を受け真清田神社もそのほとんどが焼失した。間もなく終戦を迎え、市の復興と神社の再興に向け準備が進められた。神社境内の露天の許可を良しとない警察の反対を押し切り、市は許可を出し、翌21(1946)年境内の三八市が復興した。境内には今も棟割り長屋の店舗が残る。同年10月、昭和天皇による一宮市の視察があり、戦災を免れた市役所庁舎屋上から市内の戦災跡を視察、復興への激励を賜ったことにより市と神社の再興に拍車がかかった。仮本殿および付属建物が建てられ、今では鬱蒼と茂る神社林も、この時期の植樹によるものが多い。
 昭和26(1951)年、真清田神社造営奉賛会が発足し、本格的な神社の復興が始まり、翌27(1952)年3 月には御木曳神事が1 万2千名を集めて行われた。第一期造営事業は昭和26(1951)年から昭和32(1957)年まで続き、今回紹介する本殿および渡殿、北門および透塀、祭文殿そして拝殿がこの間に建てられた。尾張地方の大社に見られる、特有の配置と建物形式の「尾張造」の形態を成す。第二期造営事業は昭和32(1957)年から昭和36(1961)年まで続き、楼門およびその周辺の建物がつくられた。拝殿は現在登録文化財へと申請中で、楼門も申請を予定しているという。
 歴史の舞台ともいえる建築物。真清田神社の建築たちも、地域史の語り部としてさらに長く年月を重ね、今の時代を未来に伝えてくれよう。※出典『 真清田神社史』
所在地: 一宮市真清田1-2-1
登録番号:
 本殿および渡殿/23-0222 (木造平屋建、銅板葺き、建築面積186㎡)
 祭文殿 23-0251 (木造平屋建、銅板葺き、建築面積232㎡) 
 北門および透塀/23-0252 (北門:木造、銅板葺き、間口2.7m 
 透塀:木造、銅板葺き、総延長99m)
建設年代:
 本殿および渡殿 1954年( 昭和29年)
 北門および透塀 1955年(昭和30年)
       祭文殿 1956年(昭和31年)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 神言神学院 谷口 元/名古屋大学大学院
  
大聖堂外観 内部 南棟外観
■発掘者のコメント
 神言神学院は、日本における神言修道会の司祭を養成するため、昭和17(1942)年多治見修道院の地に設立され、次いで昭和25(1950)年、名古屋市・滝川町の真言宗の施設を転用して移され、さらに昭和41(1966)年にレーモンドのデザインにより、現在の地に建てられた。
 校舎と宿舎部分は、隣接する南山大学と同様、主要な壁面はコンクリート打ち放し仕上げと木を思わせる赤茶の塗装で構成されている。一般の市民には、木の板が張ってあると勘違いされるという。開口部周辺には、見付の細いPC 版のブリーズソレイユで陰影がつけられている。正面入り口に立つと、高さを低く抑えられた管理棟の上空に、打ち放しコンクリートのマッシブな鐘楼がそびえている。直線的要素で構成された建物群によって囲われた中庭には、いくつかの円錐形を束ねたように、対比的にデザインされた大聖堂が佇んでいる。
 かつて神学院の東には雑木林が広がり湧き水の出る池もあって、すばらしい景観であったとのことで、周辺の開発によって景観が損なわれたことを嘆く卒業生が多いという。築45 年を経て施設の移転と現建物の解体が論議されたこともあったようだが、最終的には保存的改修が選択され、大規模な機能改修と耐震補強のための工事に、近く着手することになっている。新築時も資金不足であった記録が残っているが、このたびも工事資金が厳しく、危険な状態のブリーズソレイユの一部は、残念ながら落とさざるを得ないかもしれないと聞いている。
   所在地:名古屋市昭和区八雲町
   建設年:昭和41(1966)年3月       
   規 模:敷地面積 20,700㎡ 建築面積  2,408㎡ 延床面積 6,635㎡     
   構 造:RC 造 地下2階 地上3階 一部塔屋 最高高さ24m              
   設計者:レーモンド建築設計事務所 (アントニン・レーモンド F.A.I.A.) 
   施工者:清水建設