解体/ 集合住宅モダニズム
           第1回

Unite d’Habitation | Bijlmermeer

村上 心
(椙山女学園大学 教授)
むらかみ しん|
1960年大阪生まれ。
1992年東京大学大学院博士課程満了、椙山女学園大学講師・助教授・准教授を経て
2007年より同大学生活科学部生活環境デザイン学科教授。
1997年オランダTUDelft OBOM 研究所客員研究員。
博士(工学)、写真家・ハイパースペースクリエータ。
著書に『The Grand Tour- 世界の建築風景』『建築再生の進め方』、
訳書に『サステイナブル集合住宅』など。
2008年度都市住宅学会著作賞、2007年日本ディスプレイ大賞入選など。
連載にあたって
 サングラスが必要なほどの日差しが降り注ぐイタリア・ボローニャを、今年3月中旬に訪ねた。パスタソースのボロネーゼ発祥の地であるこの町は、欧州最古の大学が1088年に設立され、現在まで学術の中心となっていることでも知られる。建築としては、町中に広がるポルティコも有名で、この曖昧空間の発生の話も大変面白いのだが、この件については機会があれば改めて紹介しよう。
 町の中心の広場の近くに、現在は図書館にコンバージョンされた昔の大学校舎が残されており、中に、世界で最初の科学的解剖実技教育が行われた階段教室がある(写真①)。世界中から医学生が集まり、解剖学を修得して帰国し、自国で教育研究のリーダーとなっていった空間である。
 最前列の学生席に座ってしばし考えた。「これは、モダニズムと称される建築が欧州から世界中に広まった構図と同じだな」と。そもそも優れたデザインアイディアは、参考にされ、模倣されて伝搬するものである。したがって、モダニズムが世界を覆い尽くした事実を否定するものではない。が、筆者は、気候、地理条件、文化・文明の歴史、技術的背景、法規の枠組などが異なる国々に、欧州型の建築がほとんど原型のまま輸入され、長く供給されたことの正当性には疑問を持たざるを得ない。
 実際、筆者の調査研究では、モダニズム集合住宅が、各国の条件や時代の変化に合わせて「再生」された事例多数を収集分析している。
 このたび全6回にわたり「ARCHITECT」へ寄稿させていただく貴重な機会をいただいた。集合住宅を題材として、モダニズムを代表するプロトタイプとしての名建築と、必要に応じてその源泉として位置付けられるであろう前時代の建築を紹介し、伝搬の結果としての「破綻」を解消するための「再生」の事例を併せて解説することにしたい。連載のタイトル「解体」は、ボローニャの記憶と、稿への思いの表出である。 
 
 旧ボローニャ大学解剖室。
写真最下部の白い台に献体が置かれた
ユニテ・ダビタシオン Unite d’Habitation  コルビュジエ(Le Corbusier)
Marseille,Firminy ほか| France
 コルビュジエのユニテは、1952年のマルセイユを始めとして計5か所で建設された。そもそも20世紀において、世界中に建設された郊外団地の形式を辿っていくと、1920 ~1930年代にかけての西欧での近代住宅建築の実験が基礎になっていることが分かる。
 無装飾の白い箱状の建築物、インターナショナル・スタイルは、国を越えた共通の造形手法として世界中の建築物に広がっていったのである。1930年前後の欧州は好景気下の住宅不足という状況下で、新たな技術開発の成果を基に、中流階級用戸建て住宅や低所得者集合住宅の建設ラッシュの中、欧州各国でさまざまな実験が行われた。テーマは「機能に基づく住宅、都市計画」と「住宅建設の標準化による合理的建設方法」であった。
 このテーマに対して、新しい様式による解決を与えたのが、インターナショナル・スタイル・ハウジングであり、その推進主体であるCIAM(近代国際建築会議)であった。1928年に結成され、ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van derRohe)、ル・コルビュジエ(Le Corbusier)、ヴァルター・グロピウス(Walter AdolfGeorg Gropius)らが参加したCIAMは、その後1956年まで計10回を数えるが、特にその初期の会議において検討された主題を見ると、「低家賃住宅建築計画」「敷地計画の合理的方法」など、「都市」や「住宅」「集合住宅」が関心の中心であったことを示している。
 第2次世界大戦後には、戦災による破壊、職を求める人々の大都市への流入、19世紀中頃から20世紀初頭に建築された粗悪な住宅群のスラム化の進行、などを背景として、欧州全域の都市部に深刻な住宅不足が訪れた。この状況に対応するために、欧州各国政府は、戦争を経験して発展した工業的技術の裏付けによる構法としてのプレファブリケーション技術を用いて、大規模な住宅供給プログラムを進めた。建築に用いる多種の部品を、工場で製作することにより、品質の安定、コストの削減、時間の短縮、熟練工不足への対応などが図られた。
 ユニテは、このような状況下で、コルビュジエの理論である平行配置された箱型高層集合住宅とオープン・スペースの実例として、都市と住宅の在りように関する議論を、再び欧州中の建築家たちに始めさせるきっかけとなった。各国政府は、都市プランナーや建築家の提案を受けて大都市近郊に高層集合住宅を含むニュータウンの建設を開始し、中高層型マスハウジング期が始まった。
 20世紀後半の集合住宅は、超高層集合住宅の出現を含め、この型式の踏襲と変形と発展の歴史であった。 
 
最後、1960年に竣工したフィルミニのユニテ フィルミニのユニテ外壁のレリーフ
ビルメミア
Bijlmermeer
リーンブート(K.Rijnboutt)ほか
Amsterdam | The Netherlands
 
 1968年、ビルメミア(写真④⑤)に、1928・1933年のCIAM会議におけるラ・サラー(LaSarraz)宣言およびル・コルビュジエの精神である機能都市(Functional City)の思想に基づくオープン・スペースと高層を実現した最初の住戸群が完成した当時、アムステルダム郊外の広大な干拓地にユートピアが現出するのだとオランダ国民は信じていた。住棟の中心に平等なオープン・スペースを設置するために、同じ高さ、デザインの11階建て(地上9階、地下2階)の住棟は巨大な6角形平面を構成しながら連続している。住戸は、結果的に空家増の要因となる均一な住戸が配置された。敷地の80%が緑地として確保されており、中心部には大きな公園が計画された。
 しかし、中流階級の人々はビルメミアではなく、ほぼ同時に開発された他の2つの中低層型ニュータウンに好んで入居をした。1969年にはすでに、エレベータが少ないこと、庭がないこと、インフラストラクチュア(特に地下鉄が開通しないことなど)に住民の不満が表出し、空室が目立ち、居住者は、アジア人や黒人を主体とし、シングルマザー、同性愛者、失業者で構成される、という状況に至った。
 1972年から継続的に、アムステルダム市はビルメミアのスラム化防止対策を策定したが成功せず、1992年にビルメミアの抜本的再生が着手された。再生上の課題は、①住棟・住戸に多様性がないこと②維持保全計画・実施がされていないこと③犯罪、ゴミの散乱、破壊活動があること④住み手の居住期間が短いこと⑤住み手流入需要が小さいこと⑥住み手の収入が低いこと、などであった。
 再生計画の内容は、空間再生(約3,000戸の高層棟住戸の取り壊し、低層住戸の新設、残りの高層住宅の大規模再生工事、分譲住戸の売却など)、社会経済的自立(失業者に仕事を与えるプログラム,教育向上プログラムなど)、環境再生(包括的地域生活環境の向上、主として外構を対象)に分類される。
 再生の結果、街のイメージが改善され、中流階級層の流入が始まり、住戸価格および教育レベルがアムステルダム市平均近くに上昇した。結果として、1980年代には25%以上であった空室率が、2001年時点で7%まで減少した。
 上記の課題の内の幾つかの項目が、マスハウジング期に建設された先進各国の団地にも当てはまるとするならば、インターナショナル・スタイルに基づき計画された高層型マスハウジング期団地は、スラム化への潜在的な可能性を有していると考えられよう。
   
完成時のビルメミア。オープン・スペースと住棟形状については、羊かん型住棟に比して優れているという意見と、醜いという意見が対立する 注) Archis 1997-3, Nederlands Architectuurinstituut, 1997 再生後のビルメミア