保存情報 第116回
登録有形文化財 山桜神社 火の見櫓 中澤賢一/堀内建築研究所
商店街より頭を出す櫓 神社正面(櫓の全貌は見えない)
■紹介者のコメント
 高山市中心街の商店や民家が密集する中に隠れるように佇む山桜神社の火の見櫓。神社側からは死角が多く、櫓の全体像を観察することはできません。現在の櫓は1932(昭和7)年に移築再建されたもので木造板葺きの三層構造、社殿南側建物の小屋梁上に柱を建て、棟上に櫓を組んでいます。櫓の袴底部は3.4m 四方、高さは7m で頭部に宝形造の見張小屋を置き、1881(明治14)年製造の半鐘を吊っています。
 この櫓の建設から現在に至る事の顛末は江戸時代にさかのぼり、神社の縁起と深く関わっています。
 山桜神社は特に鎮火・火の用心にご利益があるとされており、祭神は江戸時代初期に実在した名馬「山桜」です。山桜は高山城主金森頼直が江戸詰の1657(明暦3)年に明暦の大火に遭い猛火に包まれたところ、城に飛び込みその危機から救ったと言い伝えられています。この功績により山桜は厩舎を与えられましたが、その死後、厩舎跡に馬頭を祀るため社殿が建てられました。ゆえに鎮火などの守護神として崇めらい現在地に移転されました。昭和になって外壁は雨漏り対策や戦時中の防空看視などのため、板張りの上にトタンを貼りコールタールで塗装した姿になっていたようですが、まちづくりの観点から2006 年平成の修理の際に縦板張りに復旧され、現在は往事の姿を今に伝えています。

所在地:岐阜県高山市本町2-65
登録番号:21-0121(2007.7.31指定)
交  通:JR 高山駅より徒歩10分
問合せ先:高山市教育委員会文化財課 
     TEL 0577-35-3156
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 林殿町 林廣伸/林廣伸建築事務所
殿町の家並み(1) 殿町の家並み(2)
■発掘者のメント
 かつての伊勢参りの道程は、江戸からは四日市「日永の追分」で東海道と分かれ参宮街道(伊勢街道)に入り、京からは関(現亀山市)の「東の追分」で東海道と分岐し伊勢別街道となり、津・江戸橋で参宮街道と合流する。
 この関、江戸橋間では、県道が各所で交差しながらもバイパスの役をなし、往還は「歴史のみち」として、往時の面影を色濃く留めている。伊勢別街道全体を町並み保存の対象とすることも可能ではなかろうか。太田博太郎博士が妻籠宿保存基本構想において木曽路全体の計画とすると規定していることが想起される。さすがに卓見で、約半世紀を経て今なお新鮮である。
 さて、細見すると、関から楠原を抜け、県道と交差しながら旧道を進むと椋本との間にある林の集落に入る。街道は集落の中心部で矩折れて南下するが、その北東角には登録有形文化財である「旧明村役場庁舎」が四つ角に玄関を向けて建つ。その脇を北上すれば明治7(1874)年創立の明小学校があり地区の中心機能を果たしている。
 さらに、街道と離れ東進すると一旦家並みがとぎれ、やがて大同元(806)年創建と伝わる普門寺の門前に至る。このあたりから屋敷割りの様相が変わり、一部に現代の要素が混在するが、石積、生垣、木塀、土塀と建物の佇まいに毅然たる風が感じられ、静謐さのなかに品格のある家並みが形成されている。地図を見ると字名は「殿町」、津市の遺跡地図には「林城屋敷城跡」とある。「粗にして乱にいたらず」「野なれど卑しからず」、道の東端は袋小路でまさに「隠れ里」の趣である。
 それにしても、最近拡幅したと思われる県道が真善寺脇を切り通し、家並みを断ち切っているのを見ると、このたびの大震災に通底する現代の技術力とは何かを考えざるを得ない。

所在地:津市芸濃町林 名阪国道関ICから車で5分
参考文献:『歴史の道調査報告書(伊勢別街道)』(編集発行 三重県教育委員会 昭和58年)