保存情報 第115回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 旧岩倉街道 布袋の町並み 澤村喜久夫/伊藤建築設計事務所
廣間家の門(旧生駒氏下屋敷中門) 布袋の町並み(本町通り) 布袋の町並み(新町通り)
■発掘者コメント 
 江戸初期、尾張藩は名古屋城下と犬山を結ぶ岩倉街道(柳街道)を整備した。美濃路の枇杷島で分岐し、小田井~九之坪(西春)~大山寺~岩倉~小折(布袋)~柏森~扶桑~木津を経て犬山に至る街道は、現在の名鉄犬山線のルートとほぼ重なる。
 この街道沿いの布袋町は、江戸期は小折村の枝郷で、街道筋には酒屋、紺屋などの商家が建ち並んでいた。明治以降も丹羽郡役所が置かれるなど中心地として栄え、現在も旧街道(本町)とそれに平行する南北の通り(新町)に伝統様式の商家や町家が点在している。それらの多くは平入り中2階建てで、虫籠窓や千本格子の家など、繁栄していた街道筋の面影を残している。
 旧街道に面して、市指定文化財の旧生駒氏下屋敷中門がある。この地方の豪族生駒氏(信長の側室吉乃の実家、江戸時代には尾張藩の重臣)の典医を務めていた廣間家が、明治初年の廃藩置県の折に貰い受け、移築したものである。門は長屋門型式で、桁行6 m、梁間2.6 m、両開き大扉と脇に潜り戸がある。入母屋造り・桟瓦葺きの緩い起(むく)り屋根は、波をかたどった鬼瓦と棟込瓦の組棟がひときわ目を引く。また正面腰部分には亀甲形の海鼠壁が施されており、往時の生駒屋敷の偉容が偲ばれる。
 現在、旧街道の南側では布袋駅を含めた鉄道高架事業と土地区画整理事業が進められており、大正初期の駅舎(「保存情報」第101 回にて報告された)はすでに取り壊された。鉄道によって分断されている市街地の一体化や良好な住環境の整備に加え、旧街道沿いの歴史文化資産を生かしたまちづくりの連携を期待したい。

所 在 地:愛知県江南市布袋町
廣間家の門:市指定文化財 昭和50(1975)年指定
参考資料:江南市役所ホームページ
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 島田神社 鈴木祥司/アトリエ祥 建築設計
参道 神楽殿 天神・天王・秋葉社
 この神社は名古屋市平針街道の途中にあり、祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命をはじめ九柱を祀る。島田城主・斯波高経(後の牧氏)が貞治年間(1362年~1367年)に築城にあたり、城の鬼門除けの守護神として熊野権現を祀った。
 明治42(1909)年、池場の神明社、八幡社、天神社を合祀の上、さらに黒石の山神社、天神社を合祀し黒石に移る。大正12(1923)年現在地に鎮座し、同15(1926)年天神社、秋葉社を境内に祀り、名称も島田神社と改めた。昭和34(1959)年伊勢湾台風でも損壊し建て替えられた。時代の変遷と災害遭遇の経過の中で、神社の姿形は変貌を遂げているようだ。
 本殿、拝殿、社務所が鉄筋コンクリート造で建て替えられてしまい、あたかも歴史の一部が切り取られたかのようで残念だが、攝社の天神社、末社の天王社、秋葉社および神楽殿は木造で残っている。攝社、末社は銅板一文字葺き、神楽殿は瓦葺きとなっており、創建当時の屋根か否かは定かではないが、こうして合社されて現在に至るのも、時代の流れとこの地域の都市化の波を表しているのだろうか。
 こま犬、燈籠、鳥居を配した参道は鎮守の森の樹々をくぐり拝殿に至るが、手水舎、奉納馬、奉納牛、菅原道真公句碑などさまざまななものが存在し、心なごまされ神の場としての領域を感じさせる。
 また隣接している島田地蔵寺も桶狭間の合戦にて本堂焼失のほか、幾多の天災に見舞われて現在に至る。そこには島田城主末裔の牧一族の墓が多数存在しているのもうなずける。
 この神社には、古墳の上に神社が建っているという興味ある逸話がある。この地域には古墳時代から続く一族が住んでおり、その古墳の主の末裔といわれている。そもそもこの古墳を守るためにその上に神社を建て、古墳の保存を図ったという。神社自体も数奇な運命にあるが、その下にさらに古墳時代の歴史ロマンが隠されていそうで、私たちの心をかき立てる。いつかこの古墳ロマンを解き明かしてみたいものだ。

所在地:名古屋市天白区島田3-301
建築年代 :本殿、拝殿、社務所/昭和50(1975)年
     攝社、末社、神楽殿/不明
構造・規模:本殿、拝殿、社務所/鉄筋コンクリート造平屋建て
     攝社、末社、神楽殿/木造平屋建て