保存情報 第114回
登録有形文化財 寺村家住宅主屋・前蔵 滝井利彰/一級建築士事務所タック設計室
主屋 前蔵(鼓繋ぎの海鼠壁) 内部の様子
 伊賀上野は築城の名手、藤堂高虎がひらいた城下町で、東西に本町、二之町、三之町の三筋、南北に東、中、西の各立町の通りで区切られた町割りが今に残されている。寺村家住宅は二之町筋と西之立町の交差点、南東角に建ち、「角屋敷」と呼ぶべき建物は、一種の景観ランドマークでもある。この町では「切妻平入り」の町家が一般的であるが、その並びにあって、角の建物は「入母屋妻入り」となる。家並みの連続性を損なわず、直行方向に家並を切り替えるデザイン手法として伊賀上野の匠が考案したものに違いない。完全な形を残しているのは、この寺村家ともう1軒だけであるが、往時は各辻に建つ町家はすべてこの形式であったと想像される。
 寺村家が建てられたのは江戸後期とされ、伊賀上野に残る町家では最も古いものに数えられる。明治になって、両替商の居宅であったものを寺村家が買い取って道具屋としたもので、今も古物商「清雅堂」を営んでいる。主屋の平部分に嵌められた多彩な格子は、それを眺めるだけでも目を楽しませてくれるが、妻部分に続く前蔵にも注目させられる。
 両替商の証とも言える白漆喰に塗り込められた土蔵の、その腰周りの海鼠壁がもう一つの特徴である。「鼓繋(つづみつな)ぎの海鼠壁」と呼ばれるのは、盛り上がった漆喰がちょうど鼓を幾何学様に連ねた形をしているためで、他には芭蕉翁生家の土蔵など数件しか見当たらない。他の地域ではこの形はあまり見られないので、伊賀上野の左官の技とも考えられる。伊賀市の登録文化財の中で伝統的な町家はこの寺村家だけであり、城下町の街並みのシンボルとして貴重な建物である。
所 在 地:三重県伊賀市上野福居町3337-1
        伊賀鉄道「上野市」駅下車、徒歩約10 分
登録番号:24-0042(主屋) 24-0043(前蔵) 2002 年
建 設 年:主屋・前蔵とも江戸後期
構造・規模:主屋/木造平屋建て、瓦葺き 
        前蔵/土蔵造り2 階建て、瓦葺き
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 足助八幡宮 原眞佐実/原建築設計事務所
本殿 拝殿
■発掘者のメント
 信州飯田街道と呼ばれた中馬の中継地足助。香嵐渓の紅葉が特に有名であるが、足助八幡宮は町の西側に鎮座する。 本来は三柱御祭神であったが、現在は応神天皇、仲哀天皇、瀬織津比咩神、菊理媛神、日本武尊の五柱を合祀してある。
 縁起によると「三河国大深山に出現した鬼形の者が北方へ飛んで足助郷に入り、そこに霊山を築いて住んだのが今の飯盛山であり、人身に変化してこの地の娘と夫婦になり二男一女を設け、その遺言によって廟社を造り八幡宮とした」とある。
 これは地主神と客人神の交替を物語っているのであろうから、元来は飯盛山の頂上にあった社が麓に降り、八幡信仰の流れによって八幡社に変わったものと伝えられている。鎮座場所も飯盛山から宮平(現在のいわしみず辺り)へ、宮平から現在地へと移り変わったと考えられている。八幡神は特に源氏の崇敬する神であることを考えると、清和源氏の末流である足助氏の入部とその時期を同じにする。
 現在境内には国の重要文化財でもある本殿の他、上拝殿、拝殿があり、秋葉社や琴平社などが七社、その他に鐘楼(梵鐘はなく建物のみ)、矢場などが現存する。
 本殿は三間社流造檜皮葺きで、室町中期の文正元(1466)年に造営されたもので妻飾、象鼻、手挟みなどの形状、絵様に室町時代の特色がよく出ており、向拝の蝦虹梁はめずらしいもので規模も地方としては大きい。同じ頃に豊川八幡宮本殿や岡崎の上地八幡宮本殿も造営されているので、八幡信仰を地域に浸透させるねらいがあったのではなかろうか。
 また、八幡宮なのに鐘楼が残っているのは明治維新時の神仏判然令によって神宮寺という名の寺院が廃止されるまで、足助八幡宮も平安初期より神仏習合であった名残である。
 御本尊である薬師如来座像は神仏分離以後は国道を隔てた南側の十王寺に安置されているのが興味深い。
 毎年秋には例祭があり、これを足助祭と呼び、古くより町の衆の「町方」と周辺在衆の「在方」が参加して行われた。町方は山車を出し在方は飾馬や棒の手を出して長年催されてきたが、中馬のシステムがすたれ、馬がいなくなったため、昭和30年代を境に簡略化され今に至っている。例祭の時期としては秋の紅葉の少し前だが、山車を4台見ることができるので出かけてみてはいかがだろう。
所 在 地:愛知県豊田市足助町宮ノ後12 
重要文化財登録年月日及び指定番号:
       明治40(1907)年5月7日.00405
造営年月日:室町中期 文正元年(1466)、
構造形式等:木造平屋 三間社流造檜皮葺き

参考文献:『足助八幡宮』