ロンドン滞在記₁
           第1回

ロンドン生活の第一歩

谷田 真
(名城大学理工学部建築学科准教授)
たにだ・まこと
1971年名古屋市生まれ。
1995年名城大学建築学科卒業。
1997年名古屋大学大学院修士課程修了、仙田満+㈱環境デザイン研究所入所。
2003年名古屋大学大学院博士課程満期退学。
2004年名城大学建築学科講師。
2005年名古屋大学にて博士(工学)学位取得。
人間と構築環境の相互関係に関心を持ち、学生との時間、家族との時間を大切に日々活動中
 「イギリスに関して」—何とも大胆なテーマを頂いた。実は本誌に連載するのは、これで2回目になる。前回は、現在の職について間もない頃、博士論文の内容をベースに「博覧会と地域開発」というテーマで書かせていただいた。今回は、筆者が2008年度に在外研究員としてUniversityof East London, School of Architecture(以下、UEL)に渡英していた経験が踏まえられ、冒頭のテーマとなったのだろう。
 そこで、ロンドンから帰国して早や1年半余りが経ち、すでに夢となりつつあるロンドンでの生活を回顧しつつ、時に今の日常と重ねながら、6回にわたって綴ってみようと思う。私的な内容も多分に含まれることが予想されるが、それもリアルなロンドンということでお許しいただきたい。
 
自宅からUEL までの概略図
まちの地区格差
 筆者がお世話になったUELは、ロンドン東部に位置し、ストラトフォードとドックランドの2地区にキャンパスを構える、学生数8,000人ほどの総合大学である。建築分野はドックランド地区にあり、キャンパスの周りはロンドンシティ空港やロイヤル・アルバート・ベクトン公園に囲まれている。一見、風光明媚な環境ではあるが、一歩街路に足を踏み入れれば倉庫や廃屋が散在し、多彩な人種構成の住民たちに注視されることになる。そこには、決して治安が良いとはいえない環境が見え隠れしていた。
 UELは、2012年に開催されるロンドン・オリンピックの会場地と重なっている。キャンパスへの主たる交通機関でもあるDocklands Light Railway(以下、DLR)沿線には、メインスタジアムのほか多数の競技施設が配置される計画である。地域開発との関係でオリンピック会場地のデータを収集するという責務を背負っていた筆者は、当初、地の利のいいUEL近くで住まいを探し始めた。しかしながら、治安や医療などの問題もあって、幼い娘を連れた我々家族にふさわしい物件を見つけることは困難を極めた。
 紆余曲折の末、住まいとなった場所は、UELから西へ15kmばかり離れたウェストミンスター地区セント・ジョンズ・ウッド。ロンドンで最も大きく、自然豊かな公園リージェンツ・パークに隣接し、日本の駐在員家族も多く住むこの地区には、人もまちも成熟した環境が用意されていた。
 このように、大学と住まいの周辺環境は極めて対象的であり、ロンドンの地区格差を期せずして経験することになったのである。 
  
大学周辺環境
 
住まいの周辺
まちの発展に寄与するイベント
 前項で触れたロンドン・オリンピックは、近年滞りがちであったドックランド地区の開発進展に大きく寄与しているといわれているが、ロンドンのまちの歴史を振り返れば、イベントが地区の都市発展に貢献した事例が少なくない。そこで、4つの地区を取り上げ、その環境をイベントとの関係から案内したいと思う。
①サウス・ケンジントン地区
 1851年、ハイド・パークを会場に、世界で最初の万国博覧会が開催された。建築的にはクリスタル・パレス(水晶宮)に話題が集まるが、ここではハイド・パークの南側に隣接する一帯、サウス・ケンジントン地区にスポットを当てる。現在この地区には、「博覧会道路(Exhibition Road)」と意味深げな名前のついた通りを軸に、ロイヤル・アルバート・ホール、王立芸術学校、インペリアル・カレッジ・ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、科学博物館、自然史博物館など、荘厳な建物が建ち並んでいる。ロンドンでも屈指の文化・教育施設が集積しているこの地区は、万国博覧会で得た莫大な収益金で、ヴィクトリア女王の夫アルバートがこの土地を購入したことから始まっており、これもイベント効果の一つのかたちと言えるだろう。
②サウスバンク地区
 1951年、サウスバンク地区を会場地に、戦後の疲弊しきったイギリスに活気を取り戻すべく、フェスティバル・オブ・ブリテン(以下、英国祭)が開催され活況を呈した。現在もこの地区には、ロンドン・アイをはじめ、ロイヤル・フェスティバル・ホール、ヘイワード・ギャラリー、ロイヤル・ナショナル・シアターなどが集積しており、週末になると路上パフォーマーとともに多くのロンドナーで賑わう祝祭の場となっている。筆者も家族を連れ立ち何度となく足を運んだ。開催当時の英国祭会場図を眺めると、幹線道路や一部の建物が恒久利用されていることが判断でき、英国祭によるソフト・ハード両面の影響が垣間見える。
③グリニッジ地区
 2000年、グリニッジ地区を主な会場地として、ミレニアム・イベントが開催された。1997年に誕生したブレア政権が強く推し進めた祝千年記の目玉イベントであり、テムズ川に突き出た半島の突端に出現した全面テント張りの巨大なミレニアム・ドーム(設計:リチャード・ロジャース)は、その後利用(当初は仮設物とされていたが、現在は娯楽施設として転用)も含めて世間の議論を引き起こした。しかし、このドームの建設を契機に、周辺地区の開発が計画され、特に交通網などインフラストラクチャーの整備が進んだことは確かである。もともと兵器やガスを扱う工場しかなかった地区を、人が集まる住環境が整った地区に変えるのだというイメージが、このイベントを通して広く市民に伝えられた。
④ドックランド地区
 最後は、2012年に向けてオリンピック・パークの整備が進むドックランド地区である。開催地決定に際しては、貧困地区の再開発に絡めたコンパクトな会場構想や徹底した施設の後利用計画などが、高い評価を得て激戦を制しただけあり、この地区全体が持続可能な計画となっている。例えば、オリンピック・パーク自体は、閉幕後は自然環境に配慮した大規模な都市公園になるし、選手村は住居、保育園、小学校などに生まれ変わる。逆に後利用が見込まれない施設は、縮小あるいは解体し、管理運営費を極力抑えるという。いずれにせよ、メガイベント終了後この地区がどう変貌を遂げているのか楽しみである。      
 
サウス・ケンジントン地区
  
サウスバンク地区
 
グリニッジ地区
まちの横断から見えてきたもの
 自宅からUELへの通学路は、地下鉄ジュビリー・ラインとDLRを乗り継いで、ロンドンの西から東へ横断するものだった。その道のりは、前項で触れた万国博覧会の会場地付近グリーン・パーク、英国祭の会場地付近ウォーター・ルー、ミレニアム・イベントの会場地付近ノース・グリニッジ、そしてロンドン・オリンピックの会場地を結ぶDLR沿線を、まさに時系列で経由する道中であり、ここがロンドンの都心なのかと思えるほど豊かなまちの風景が、倉庫街の中で開発が進む殺伐としたまちの風景へと激変する道中であった。 筆者のロンドン生活の第一歩は、この動線を通して、まちの発展の歴史を横断し、地区による成熟度の違いを実感することから始まったのである。